一丸禎子 ― 『マザリナード文書とは何か』 ――コーパスとしての東京大学コレクション―― 東京大学博士論文、2006年9月19日

序論 - 第1部 - 第2部 - 結論 - おわりに

第1部

mazarinade 》という語が何を指し示すのか.こうした見知らぬ単語に出会ったとき,人はどうするか考えてみると,おそらく最初に調べるのは手近な辞書類であろう.最近ではインターネットの検索エンジンを百科事典のように使うこともできるが,まだ誕生して間もないこのメディアが提供する情報は玉石混交である.そこで見つけた情報の真偽には十分に注意しなければならない.わたしたちは,そうした危険を冒す前に,まず堅実に活字媒体を通じて,この語がどのように紹介されているか見てみることにしよう.初めに手がかりとするのは,現代の代表的なフランス語の辞書『 TLF 』と『グラン・ロベール』である.これらの辞書の記述を手がかりとしながら,次にわたしたちが検討しなければならないのは,この語が生まれた歴史的背景である.辞書の記述にも表れているように,《 mazarinade 》の誕生は,〈フロンドの乱〉と宰相マザランが存在しなければありえなかったのであり,両者と切り離して考えることはできない.また,それゆえに,のちに個々の「マザリナード文書」を取りあげて研究する上でも,背景となった歴史的事実は必要不可欠な知識となる.わたしたちは最初に〈フロンドの乱〉,その次にマザラン,という順序で取りあげ,前者においては全体の推移を,後者においては人物を分析しつつ記述を進めていこう.なぜなら,最初に〈フロンドの乱〉全体の経過を俯瞰した方が,マザランという人物の置かれた立場や,反マザランという動きがなぜ生じてくるのか理解しやすいからである.同時にそれらの経過を文章ではなく年表という形にまとめておくことにしよう.その方があとから参照しやすいからである.そして最後に,この言葉の語源とされるスカロンの『ラ・マザリナード』(1651年)という詩を紹介する.この詩は語源の考察だけでなく,その内容や表現から,〈フロンドの乱〉の時期に反マザランの感情がどのようなものであったかを知るのに役立つであろう.ここで得られる知識は,したがって,物理的に存在する「もの」としての「マザリナード文書」ではなく,辞書の記述における《 mazarinade 》についてのものであるi

第1章

一般的な辞書にみる《 mazarinade 》の定義と派生語のメカニズム

I. 一般的な辞書の記述

mazarinade 》という単語は,あまり一般には使用されることのない言葉である.そこでわたしたちは初めに現代の代表的なフランス語の辞書における記述を参照することにしよう.

まず『 TLF 辞典』Trésor de la langue française ; dictionnaire de la langue du XIXe et du XXe siècle 1789-1960Paris, CNRS, 1971, 16 vol.)では,見出し語 [MAZARIN, -INE] (名詞および形容詞)の派生語として,以下のように記述されている.

MAZARIN, -INE, subst. et adj.

(- – - – -)

DÉR. Mazarinade, subst. fém. [Pendant la Fronde] Satire contre Mazarin. Les Mazarinades sont de vrais mémoires de la Fronde, qui ont sur les autres l’avantage de nous rendre, pour ainsi dire, contemporains de cette époque d’intrigues, en nous transportant au milieu des personnages qui y jouaient les principaux rôles (JOUY, Hermite, t. 4, 1813, p. 259). P. ext. et en emploi adj. j’avais vu encore en avril un graffito sur une affiche, très « mazarinade » (LARBAUD, Journal, 1934, p. 301). —- [mazaRinad]. Ds Ac 1878. —- 1re attest. 1651 ([SCARRON], La Mazarinade [titre]) ; du nom du cardinal Mazarin, suff. -ade.

派生語「Mazarinade」実詞,女性名詞. [フロンドの乱の時期] 反マザランの諷刺.「マザリナードはフロンドの乱のまことの記録であり,これが他に抜きんでて優れている点は,そこで主要な役割を演じている人々のただなかに,わたしたちを運んでいくことによって,いうなれば,あの策謀の時代の同時代人とすることにある.」(ジュイ・エルミット,第4巻,1813年,p. 259).さらにそこから形容詞的用法が派生する.「わたしは四月になってもまだ,張り紙に落書きがあるのを見たけれど,じつにマザリナードと呼ぶにふさわしいものだった」(ラルボー,『日記』,1934年,p. 301).― [mazaRinad](発音).アカデミーフランセーズの辞書による.1878年.― 初出.1651年.(スカロン『ラ・マザリナード』(題名;マザラン枢機卿の名前から派生,接尾辞 -adeによる.

次に『グラン・ロベール辞典Le Grand Robert de la langue française ; dictionnaire alphabétique et analogique de la langue française de Paul Robert Paris, Le Robert, 1985, 9 vol., 2e éd.)には,次のように記述されている.

MAZARINADE n.f. — v. 1648, cf. Scarron, « La Mazarinade » (1651) ; de Mazarin, et -ade. – Hist. Chanson ou pamphlet publié contre Mazarin, pendant la Fronde (Par Scarron, Patru, Retz, etc. et surtout par des anonymes).

MAZARINADE 女性名詞 ― 1648年頃,参照項目 スカロン作『ラ・マザリナード』(1651); Mazarin -ade による.歴史 フロンドの乱の間に出版された,反マザランのシャンソンや誹謗文書(スカロン,パトル,レ等,そしてとりわけ匿名の作者による)

これらの辞書の記述から導かれるのは, 1)この語が人名《 Mazarin 》に接尾辞《 -ade 》を結びつけて派生させた単語であること,そして,2)語義としては〈フロンドの乱〉の時期における「反マザランの文書」を指し示すものであるということである.

II. 固有名詞からの派生語;人名《 Mazarin 》と接尾辞《 -ade 》の結合

mazarinade 》という単語は,《 Mazarin 》という人名,つまり固有名詞と接尾辞《 -ade 》との結合である.このように固有名詞に接尾辞《 -ade 》がついた場合,一般にはどのような意味になるのだろうか.接尾辞《 -ade 》の機能について,『グラン・ロベール辞典』は,以下のように説明する.

-ADE Suff. empr. aux langues romanes méridionales ; esp. -ada, provençal -ado, ital -ata ; en franç., s’adjoint à des verbes ou à des substantifs à partir du XVe siècle. Il sert à former des substantifs collectifs (sur une base nominale : coton – cotonnade) ou désignant le résultat d’une action (sur une base verbale : rigoler – rigolade ; se baigner – baignade).

-ADE 接尾辞.南部ロマンス諸語からの借用.スペイン語では -ada,プロヴァンス語では-ado,イタリア語では -ata となり,フランス語においては15世紀から動詞や名詞に結びつくようになる.集合名詞(名詞的基体:coton cotonnade 「綿 綿織物全体」),あるいは行為の結果を指し示す名詞(動詞的基体: rigoler rigolade 「ふざける ふざけること」, se baigner baignade 「水につかる 水浴」)を形成するのに用いられる.

つまり接尾辞《 -ade 》の機能は,動詞あるいは名詞に結びつき,新たに名詞をつくるものである.名詞と結びつく用例「coton cotonnade 」(「綿」から「綿織物全体」への集合名詞化)にならえば,《 mazarinade 》という単語は,まず,基体となる名詞《 Mazarin 》が接尾辞《 -ade 》の働きによって集合名詞化したものであると説明づけられる.

ここで注意すべき点は,《 mazarinade 》という語においては,基体となる名詞が辞書の用例にある《 coton 》のような普通名詞ではなく,固有名詞――人名――であるということだ.こうして人名が集合名詞化した《 mazarinade 》という語は,何を指し示しうるのか.辞書の用例のように普通名詞が接尾辞《 -ade 》と結びついた場合(「coton cotonnade 」),同一の素材から生じるものを,その様態のあり方を問わず,ひとつの集合として示しうるなら,「Mazarin mazarinade 」のように,特定の人物の名前に《 -ade 》が結びついた場合には,そこに名指された人物に固有のさまざまな様態を集合として示すことになるだろう.そこには外見,容貌,趣味,性格,行動,生活信条など,その人物に関わるありとあらゆる事柄が含まれうる.接尾辞《 -ade 》による集合名詞化というメカニズムによって派生した《 mazarinade 》という語は,そのかぎりにおいて,《 Mazarin 》という人物の「存在様態の集合」を意味する.

III. mazarinade 》という語が指し示す「もの」──〈フロンドの乱〉における「マザランに対する誹謗文書」

一方,辞書の与える語義は,この単語がじっさいに使用される場合,具体的にどのような「もの」を指すかも示している.先に引用した辞書の記述のうち,その部分を抜き出して,もう一度見てみることにしよう.

TLF 辞典』の場合

[Pendant la Fronde] Satire contre Mazarin.

「フロンドの乱の時期」 反マザランの諷刺

『グラン・ロベール辞典』の場合

Chanson ou pamphlet publié contre Mazarin, pendant la Fronde (par Scarron, Patru, Retz, etc. et surtout par des anonymes).

フロンドの乱のあいだに出版された,反マザランのシャンソンや誹謗文書(スカロン,パトル,レ等,そしてとりわけ匿名の作者による)

こうした辞書の定義によれば,《 mazarinade 》という語によって具体的に指し示されるのは,chanson (シャンソン),《 pamphlet (誹謗文書)あるいは《 satire (諷刺)など,言葉による営為である.先の派生語のメカニズムによってつくられる集合に対して,現実にはいくつかの具体的な条件が課せられる.その条件を整理すれば,次の3つになろう.

1「シャンソン」「誹謗文書」あるいは「諷刺」などの形式をまとった言語表現であること.(形態)

2「反マザラン」であること.(内容)

3)〈フロンドの乱〉の時期に限定されること.(期間)

辞書の定義にしたがえば,《 mazarinade 》と呼ばれるには,この3つの条件を同時に満たしていなければならないということになる.

さて,辞書の定義をよりよく理解するためには,この3つの条件に含まれる固有名詞をもう少し詳しく見る必要がありそうだ.つまり背景にある〈フロンドの乱〉とはどのような反乱であり,そして 問題になっている「マザラン」とはどのような人物であったのかということである.

第2章

フロンドの乱〉La Fronde1648-1653

概観

1.時期

〈フロンドの乱〉は,ルイ13Louis XIII1601-1643,在位1610-1643)の死後,即位したルイ14Louis XIV1638-1715,在位1643-1715)の時代に起きたフランスの内乱である.1643年,5歳で即位した新国王ルイ14世は成年に達していなかったため,成人として認められる満13歳になるまで(165195日),母親であるアンヌ・ドートリッシュ Anne d’Autriche 1601-1666)が摂政をつとめることになった.このときの宰相がマザラン枢機卿 Cardinal de Mazarin, Jules 1601-1661) である.〈フロンドの乱〉が起きたのは,未成年の国王に代わって,摂政である王母と宰相が国を動かしていた時期にあたる.

2.発端

内乱のきっかけになったのは,戦費調達のための課税強化であったとされる.〈フロンドの乱〉に先立つこと13年前の1635年,ルイ13世の時代に,ドイツ30年戦争 Guerre de Trente Ans1618-1648)へ直接的に介入することになったフランスは,神聖ローマ帝国と敵対するだけでなく,同時にスペインとも戦争状態に入った.前者とは1648年まで,後者とは1659年まで戦争が続くことになるが,しかし,1635年以前にもすでにフランスはスウェーデンを支援することによってドイツに介入していたので,戦争は事実上,その前から始まっていた.軍隊を維持するには当然経費がかかるが,戦争にかかる支出はじっさい1630年以降,急激に膨れあがり,それをまかなうには増税しかなかったii.増税につぐ増税の上に,新たな課税が導入されれば反発が起きるのは必至である.だが,歴史に残るすべての反乱に共通していえるが,たったひとつの小石がきっかけで起きた暴動が大きな内乱にまで発展する陰には,必ず複数の要因が隠れている.小石が投げられてもそこに水がなければ,波紋は生じない.〈フロンドの乱〉もまた,課税の強化が直接の引き金であったといわれるが,それが足掛け6年におよぶ内戦に発展した背後には,やはり複雑に絡み合った,いくつもの要素が働いているとみるべきであろう.ことは増税にのみ還元されるほど単純ではない.

また,何をもって〈フロンドの乱〉の始まりとするかについて,歴史家たちの意見はかならずしも一致していない.どの事件をもって〈フロンドの乱〉の最初の出来事とするかを決めるのは確かにむずかしいが,期間はおよそ1648年から1653年までとすることでほぼ研究者の同意は得られているようである.さまざまな出来事の積み重ねにより政治的緊張が徐々に高まってゆき,1648年の年明けとともに臨界圧力に達したようだ.いずれにしても,同年513日,摂政政府の方針に反対するパリ高等法院 le Parlement de Paris,援税院 la Cour des Aides,会計監査院 la Chambre des Comptes,大顧問会議 le Grand Conseilが団結して,〈最高法院連合裁定〉Arrêt d’Union にいたったその時点で,王国の政治的分裂は決定的になったのであるiii

3.名称の由来

かくして始まった1648年から1653年までの内乱を〈フロンドの乱〉と呼ぶ.なぜこれを〈フロンドの乱〉と呼ぶのか.そもそも《 fronde 》とは,石を遠くへ投げるための簡単な仕掛けである.古くは聖書の時代に,ダビデが巨人ゴリアテを倒すのに使ったとされる.しかしながら,武器としてはきわめて原始的で,17世紀には子供の玩具の地位に甘んじていた.17世紀フランスの内乱がこの「石投げ器」の名前で呼ばれるようになったのは,パリ高等法院の評定官バショモン Bachaumont, François Le Coigneux, seigneur de Bois-Chaumont1624-1702)による.レ枢機卿 Cardinal de Retz, Jean-François-Paul de Gondi,(1613-1679の回想録によれば,バショモンは冗談交じりに,この玩具で石を投げるという意味の動詞《 fronder 》を用い,高等法院のマザランへの敵対を次のように評したとされる. « le Parlement faisait comme les écoliers qui frondent dans les fossés de Paris« (高等法院ともあろうものが,パリの溝に隠れて投石する学童のごとく振る舞ったものだ)iv

バショモンの発言はたびたび同時代人の回想録に取りあげられている.確かにこの内乱を《 fronder 》という語で最初に表したのは,彼に相違ないであろう.モンパンシエ公爵夫人 Duchesse de Montpensier, Anne-Louise d’Orléans1627-1693は,次のように書き残している.

Un jour dans ce commencement de troubles, que le parlement s’assemblait souvent, Bachaumont, conseiller, parlait d’une affaire qu’il avait; il dit de sa partie « Je le fronderai bien. » Et comme chacun était assis à sa place, l’on commença à parler contre M. le cardinal, sans cependant le nommer, quoiqu’on le fit assez connaître.

ある日のこと,こうして内乱が始まった直後のことで,高等法院がしばしば集まって会合を開いていたときのことです.評定官のバショモンはご自分の関わっている問題について話していました.そして敵方についてこういったのです.「あいつには本気で飛礫を投げてやりたい」 « Je le fronderai bien » すると,各々がご自分のお席で,枢機卿への非難を口にし始めたのです.お名前こそ出しませんでしたけれども,でも皆さん,それとはっきりわかるような言い方をなさっていましたv

バショモンが気に入って使った動詞が,〈フロンドの乱〉を表現するのにぴったりの言葉だったのである.が,しかし,ここで注意しなければならないのは,バショモンがこの言葉を使い始めたころ,《 fronder 》の行為者は誰で,飛んでくる石を受けるのは誰だったかということである.行為者は評定官バショモンの周囲にいる人々,すなわちパリ高等法院であり,投石の標的はマザランであった.モンパンシエ公爵夫人が伝えるところによれば,それが次のような歌によって,巷間に広まっていく.

Un vent de Fronde

S’est levé ce matin.

Je crois qu’il gronde

Contre le Mazarin.

Un vent de Fronde

S’est levé ce matin.

フロンドの風が,

今朝,起こった.

思うに,この風うなりをあげて

マザランめがけて吹きつけるぜ.

フロンドの風が

今朝,起こったvi

それは初め,パリ高等法院のマザランに対する抗議行動を指していたのである.

4.ふたつのフロンド

しかしながら,1648年から1653年まで,足かけ6年におよぶこの内乱は,一貫してパリ高等法院が主導したわけではない.この内乱1650年ごろを境にして,前半と後半に分けられる.最初の政治的対立は,先に述べたようにパリ高等法院と摂政政府との間に緊張が高まったことにより,1648年の年明けとともに始まった.その後に続く混乱は,しかし,翌年41日,パリ高等法院が宮廷と和解した〈サン・ジェルマンの和平〉la Paix de Saint-Germainにより,一旦は終結したと見なされる.これが前半のフロンドであり,後に再燃する内乱と区別して,「高等法院のフロンド La Fronde parlementaire」,あるいは「古いフロンド La vieille Fronde」と呼ばれる.

その後,火種がふたたび勢いを増すとき,今度は同時に大貴族が地方に蜂起をうながす動きがあり,やがて王国全体を揺るがす内戦となった.後半のフロンドは,1650118日,コンデ大公 Louis II de Bourbon, prince de Condé, dit le Grand Condé1621-1686)を筆頭に,コンティ公 Armand de Bourbon, prince de Conti 1629-1666),ロングヴィル公爵 Henri d’Orléans – Longueville, duc de Longueville, prince souverain de Neuchâtel 1595-1663)ら3人の大貴族が逮捕されたことから始まり,マザランの二度の亡命,各地の騒乱と王軍による鎮圧を経て,ようやく1653731日,宮廷との和解〈ボルドーの和平〉 la Paix de Bordeaux が成立し,これをもって終結したとみなされる.このように後半は特にコンデ大公ら王侯貴族たちの武力衝突が中心になることから,「大貴族のフロンド La Fronde princière」と呼ばれるvii.このように前半と後半を区別して呼ぶこともあり,この内乱の連続性については,まだ明らかにしなければならない点が残っているという歴史家もいるviii

確かに後半を「大貴族のフロンド」と呼ぶにしても,問題となる貴族たちが前半の,いわゆる「高等法院のフロンド」にまったく関与しなかったわけではない.後半の主役になるコンデ大公は,初め宮廷側にいてパリ高等法院を威圧し,弟のコンティ公や姉の夫であるロングヴィル公爵とは敵味方に分かれていた.しかし,1650年に逮捕されて以降,今度はふたりと常に行動を共にし,国王軍と戦うことになる.また国王の叔父ガストン・ドルレアン Gaston d’Orléans1608-1660)は,摂政政府と諸勢力との間で仲介役を演じつつも,最後の最後には反宮廷であることを隠さない.それゆえ,後半を「コンデ派のフロンド La Fronde condéenne」と呼び,広範囲の内戦(« grande guerre civile1651-1652) ») として扱うのがふさわしいという歴史家もいるix.しかしながら,パリ高等法院が後半のフロンドにまったく関わらなかったわけではない. そして,のちのレ枢機卿,内乱の始まりにはパリ副司教 coadjuteur de l’archevêque de Parisであったポール・ド・ゴンディ Jean-François-Paul de Gondi1613-1679は,この内乱に乗じて宮廷における地位を確保しようと右に左に奔走する.最初は民衆の煽動にも成功し,摂政にもうまく取り入って着実に勢力を伸ばしたかに見えるが,結局は失敗し逮捕される.このようにとりわけ未成年の国王の周囲では,一般に〈フロンドの乱〉の発端とされる課税問題とは別の様相――宮廷内の権力闘争――も見えてくるのである.

いずれにしても,前半と後半の連続性や各陣営の利害などについて,歴史家にとってもまだ考察の余地が残っている課題であるといえよう.ここではそうした議論に深入りすることなく,あくまでも《 mazarinade 》の歴史的背景をたどっていくために,〈フロンドの乱〉がどのように推移したのか,時の順序にしたがって見ていく.

だが,それには,〈フロンドの乱〉に関してわたしたちが陥ってきた先入観をあらかじめ却けておく必要がある.つまり,この政治的混乱をフランス大革命の前段階と見なすような早計な判断や,絶対主義に対する封建貴族の反抗とする極端な単純化や,あるいは19世紀の歴史家ミシュレのように王権に対する忠誠心の問題とするような心情的解釈などである.それらを一旦脇に置き,随時,新しい歴史学研究の視点を参考にすることは,わたしたちが17世紀に起きたこの内乱を先入観のない目でもう一度見直すよい機会にもなるであろう.特にロベール・デシモンとクリスチャン・ジュオーによる指摘は,わたしたちにこの事件の新たな側面を見せてくれる.この新しい歴史家たちが指摘するのは,内乱の大きな原動力が,戦争と経済と政治の新しい統治システム――〈非常態の体制〉régime de l’extraordinaire ――に対する反発にあったという点であるx. わたしたちはこの意見を参考に,「新しい統治システムに反発する力」という視点から,この内乱を見直すことにしよう.

I. 高等法院のフロンド〉(16481月─164941日)

1.徴税と統治システムの変化

それまでにもさまざまな形で戦争は絶えず行われていたが,〈フロンドの乱〉の前には1635年に始まったスペインとの戦争(ハプスブルク家に対する戦争であり,戦地となったのは主として低地地方)があり,軍隊を維持するために数々の増税策が採られていた.特に内乱に先立つ数年前から,財務監査長官 surintendant des finances パルティセリ Michel Particelli d’Émery 1596-1650)が税収増加のために狙いをつけたのは,一般官職保有者 officiers とパリ市民である.増税が不満を生じるのは当然のことであるが,問題は課税だけにとどまらない.徴税強化のために,王国の統治システムそのものが変わろうとしていたのである.次に,一般官職保有者とパリ市民への税の関係をそれぞれ別々に取りあげて,〈フロンドの乱〉との関係を見てみよう.

1-1. 一般官職保有者と税(売官とポーレット税)

官職 offices に関わる国庫収入には臨時的なものと定期的なものと大きく分けてふたつあった.前者の代表が官職の売買,後者は年毎に支払われる年税,通称〈ポーレット税〉la Paulette ある.

17世紀フランスの官職制度において,15世紀に始まる官職の売買 la vénalité des offices がすでに慣習化していたのはよく知られているxi.司法・財務・警察の一般的官職はほぼ全体が売官の対象になっていた.国庫にとって売官は,たとえば戦時におけるような臨時の支出をまかなうにはひじょうに便利な手段であった.

ところで,ひとたび売却されたのちの官職は,反逆罪のような重罪でも犯さない限り,国王が勝手にとりあげることはできない.だが,国王はそれらの官職に対する統御権をまったく失ったわけではなかった.たとえば,官職の保有者はその職を他人に譲渡したり,あるいは息子に相続させうるが,それには条件が課せられていた.そうしたければ,その官職の現保有者が生前に辞職し,国庫へ一定金額を納め(〈辞職認可税〉 le droit de résignation ),さらに国王の認可を受けなければならなかった.これは教会法に準じた制度で,生前に辞任という「犠牲」を払うことにより,王からの「恩恵」としてその官職の移譲を認められたのである.だから,この辞職から40日以内に,不幸にも前任者が死亡してしまった場合,この恩恵を受ける者がいなくなったものとして,国王はその職を没収することができた.しかし,1604年,アンリ4Henri IV 1553-1610,在位1589-1610)の時代に制度が改革される.時の財務監査長官シュリーMaximilien de Béthune, duc de Sully1559-1641)の発案によって, 毎年,その官職価格の60分の1の金額を国庫に納めれば,40日以内に死亡しても国王に没収される心配はなくなったのである.つまり,その職の永続的保有が,事実上,認められたことになる.この新しい制度は,毎年国庫に一定金額を納めてその権利を保持するところから〈年税〉le droit annuel というのが本来の名称だが,この税を担当した財務担当官 financier のシャルル・ポレCharles Paulet の名にちなんで〈ポーレット税〉la Pauletteと呼ばれる.〈ポーレット税〉が導入されたことによって官職の世襲が促進され,国にとっては安定した税収の増加と官僚体制の維持につながったxii.一方,官職の保有者たちはそのおかげでより独立性を高めることになったのである.

ところが,ルイ13世の時代になると,国王は親任状によって自由に任命あるいは解任できる国王親任官 commissaire を重用するようになる.一般官職とこの国王親任官の大きな違いは,前者は国王が勝手に罷免できないが,後者はそれが可能なところにある.そしてとりわけ徴税が強化される1630年以降,総徴税区 généralité には国王親任官である総代監 intendant が派遣されるようになった.彼らは国王の直接の代理人としてもともと高い権限を有していたが,1634年以降になると,戦費調達のため,前にも増して徴税を徹底する必要から,その権能はさらに強化された.また,その権限の及ぶ範囲も,司法,治安,財務にまたがるように拡大するのであるxiii

こうして国王直属の総代監が権力を増していくという「徴税のための制度改革」によって,その下におかれることになった一般官職保有者たちはしだいに不満をつのらせていく.そして,彼らの不満はルイ13 世とリシュリューの死後,まさに摂政アンヌ・ドートリッシュとマザランの時代に頂点に達する.〈フロンドの乱〉の直前,王国の行政は,こうした緊張関係の上に,かろうじて均衡を保っていたのである.

さて,1647年から1648年の冬にかけて,ルイ14世の摂政政府――つまり,王母と宰相マザラン――春に再開される戦闘にむけて,軍備を1月中に整えておく必要に迫られていた.財務監査長官パルティセリは戦費の調達のため,国務顧問会議 Conseil d’État 訴願審査官職 maître des requêtesのポストを,新た24個増設して売ろうと考えるxiv.この決定が一般官職保有者たちの不満を爆発させることになった.彼らが強い危機感をいだいたのは,それによって自分たちの既得権を侵害されることであったxv.じっさい,もっとも強く反対したのは,すでにこのとき訴願審査官職にあった72名である.彼らは団結して職場を放棄し,1648110日,パリ高等法院に対して官職の売買に関する王令を登録しないよう訴えた.パリ高等法院長 le premier président モレMathieu Molé1584-1656)は,これを受け入れるxvi.この事件は,目先の既得権侵害だけではない.先に述べた国王親任官のひとつである総代監は,ここで新たに募集されようとしている訴願審査官か,もしくは国務評定官 Conseiller d’État の中から選ばれることになっているのである.そして,スペインとの戦争のために,摂政政府は徴税を強化する必要があり,つまりはこの総代監を必要としている.一般官職にとって,将来的に,かつ永続的に「目の上のたんこぶ」となりかねないものがまた増えるかもしれないのである.ルイ13世以降採用されるようになった国王親任官による直接統治への反発が,やはりここにも見え隠れしている.

このような官僚たちの不服従に対して,財務監査長官パルティセリには,国王親裁座 lit de justice ――国王がみずから高等法院に出向き,法を強制的に登録させる儀式――という切り札が残っていた.なにが何でも戦費は調達はされなければならない.そこで115日,パリ高等法院では国王親裁座が開かれ,問題の売官を含む財政関係の諸王令が登録された.だが,翌日すぐに,パリ高等法院はこの登録を無効とする.訴願審査官たちのストライキも続行していた.パリ高等法院はこうして,摂政政府が国是とする政策を拒絶したのであった.

1-2. パリ高等法院の自己防衛策

パリ高等法院は政策を拒否しただけではない.連日,パレ・ド・ジュスティスPalais de justiceでは集会が開かれ,事態をいかに打開するかをめぐって議論が白熱していた.まず早急に明らかにしなければならなかったのは,国王親裁座において登録された王令を,パリ高等法院が無効にできるか否かである.

そもそも親裁座が開かれたといっても,国王はまだ未成年である.それゆえに議論は摂政の権限の範囲に及ばざるをえなかった.その摂政による統治は,そもそも1643年,ほかならぬパリ高等法院が,ルイ13世の遺言――次の幼い国王を助けるために摂政顧問会議 le Conseil de régence を組織する――を破棄して,王妃アンヌ・ドートリッシュを摂政と認めたことにより始まったのである.この長い議論の末に高等法院が到達した見解は,要約すれば次の2点であるxvii

1)歴史的にもパリ高等法院は,法を体現する国王とつねに一体であった.

2)よって国王が未成年である今,法に関する権限は,摂政ではなくパリ高等法院にある.

自ら王国の基本法の守護者をもって任じるパリ高等法院にしてみれば,これはごく当然の結論であった.けれども,ここにいたってパリ高等法院は摂政の施政方針に異議を唱えるだけでなく,摂政の権限の否認にまで踏み込んでいる.それはパリ高等法院にとって自己防衛策にほかならないが,しかし同時に摂政政府による統治――「新しい統治システム」――の否定でもある.それゆえに摂政側は,戦争を継続するためだけでなく,政体の権威を維持するためにも,パリ高等法院の不服従をこのまま放置するわけにはいかなかった.

1-3. 〈ポーレット税〉による圧力

16481月に問題になった売官は,春に再開するスペインとの戦争を準備するためのものだった.これは戦時体制に直結する臨時収入である.ところで,一般官職保有者に課せられる年税〈ポーレット税〉は,定期的に国庫に入ってくるもので,いわば経常収入である.一見するとこの〈ポーレット税〉は戦時体制とあまり関係がないように思える.しかし,この税が摂政側にとっては,未成年の国王による親裁座以上に,現実的な武器になった.重要なのはこの税のもたらす収入ではない.この制度には,もうひとつ別の使い道があったのだ.

既述のように〈ポーレット税〉は,官職価格の60分の1を毎年国庫に納めるのと引き換えに,官職保有者の権利を保護するものであった.だが,それには9年ごとの更新手続きが伴う.そしてこの1648年は,まさにその更新年度にあたっていた.つまり,摂政側では,この更新を認めないという形で,官職保有者に圧力をかけることが可能だったのであるxviii

164811日に更新されなければ,〈ポーレット税〉によって保護されていた権利は,前年の1231日をもって消えてしまう.もし更新が認められないまま,11日以降にその官職保有者が死亡した場合,その官職は相続も譲渡もできなくなるのである.そうなれば国王は無条件にそれを取りあげることができる.摂政側は前年から〈ポーレット税〉の更新問題を棚上げにしてきたのだが,いよいよここへ来て,更新をいっさい認めない方針を打ち出した.

これに対抗してパリ高等法院は,他の3つの最高法院――援税院,会計監査院,大顧問会議――に働きかけ,法官たちの団結を呼びかける.かくして摂政政府とパリ高等法院は,新官職の売買と〈ポーレット税〉の更新をめぐって,1648年の1月から4月にかけて,4ヶ月にわたるにらみ合いを続けることになる.

430日,この団結の分裂をはかるため,摂政アンヌ・ドートリッシュは,パリ高等法院をのぞく残り3つの最高法院に対し,〈ポーレット税〉の更新を,それまでの9年ではなく4年毎に認めると告げた.だが,これはかえって逆効果だった.

513日,パリ高等法院を筆頭とする4つの最高法院の面々はそろって職場を離れ,「聖ルイ王の間」 la Chambre de Saint-Louis に集結し,四者の連合を裁決する.これが〈最高法院連合裁定〉である.それまで強いライバル意識をもっていた4つの最高法院が連帯したのである.なるほどそれは驚くべき出来事であったにはちがいない.それゆえにこの連合を「革命的」と評価する著名な歴史家もいるxix.「革命的」であったかどうかはひとまずおくとして,こうして摂政側とパリ高等法院は全面的に対立することになった.4つの最高法院が主張するのが,戦争の終結,課税強化の中止,そして国王と一体化した法的権威,つまり王国がかくあるべきと考えられる常態──ordinaire ──であるとするなら,摂政と宰相マザランが実現しようと推し進めているのは,戦争の継続,そのための収入の確保,および未成年の国王に代わって統治する摂政の絶対的権威である.それは王国の常態とは異なる体制──extraordinaire ──の構築だとみなされるのではないだろうか.

1-4. パリ市民と税

ところで,財務監査長官パルティセリが戦費調達を見込んで課税強化の対象としたのは,一般官職保有者だけではなかった.パリ市民も同様にその対象となったのである.パリにおいて,それがたどった経過を次に述べる.

当時,パリ市の人口は約40万人であったといわれる.パリは王国の首都であり,国王の膝元であるが故に多くの特権が認められてきた.しかし同時に王国の政治と財政に直接結びついており,市民に対しては,〈フロンドの乱〉の始まる数年前から,さまざまな形で課税強化が試みられていた.パリ市民に対してこの時期に強化された課税の代表例は,〈トワゼ〉 toisé (パリの城壁外の違法建築に対しその所有者に課せられる税金)xx,〈タリフ〉 tarif (そもそもは貨幣にする貴金属の欠乏を補うためにつくられた,パリ市に入ってくる輸入品の関税だったが,中央集権化と重商主義化の過程で保護関税化し,1644年以降は,課税対象は国内生産品であっても,オランダ人商人が原料などの輸送に関与したと見なされるものにまで拡大された),そして〈エード〉 aides と呼ばれる一種の消費税(対象となる物品はじつにさまざまだったが,特に1641年にはウイスキー,1644年にはワインに課せられたこの税金が引き上げられ,そのうえに1640年からは「献納金subvention」という名目で,穀物をのぞくすべての商品に1リーブルあたり1スーが課税されていた),さらには,有産階級に対する強制公債ともいえる〈富裕者税〉taxes des aisés などがあげられる.これらの税金に,当然パリ市民は不満をつのらせていた.

それが爆発するきっかけとなったのは,国王の年貢賦課地における土地の〈譲渡税〉l’édit du domaine である.市民が封建領主の土地を借りるには,微々たる地代を支払うだけでよかったが,相続や借地権の移譲に伴う名義人の変更には,多額の税を納める必要があった.パリ市では教会をのぞけば,もっとも多くの土地を所有している「領主」は国王である.この王領地内の借地権の買い取りに対して,一年分の地代が課せられることになったのである.その決定はすでに1645年になされていたが,1647年,いよいよ実行の運びとなると,これに反対する声が高まり,1648111日から14日にかけて,ついにパレ・ド・ジュスティスやサン‐ドニ街 la rue Saint – Denis で暴動が起きたのである.サン‐ドニ街では国王の近衛隊と市民の自警隊がぶつかることになった.

1-5. 市民のフロンド:サン‐ドニ街の暴動

デシモンとジュオーは,このサン‐ドニ街の暴動こそ,〈フロンドの乱〉の始まりであるとする.だが,この出来事は歴史家たちのつくりあげてきた〈フロンドの乱〉という「枠組み」には収まりきらないともいうxxi.なるほどグベールなどはこの暴動がパリ市民に与えた衝撃の大きさを認めつつも,これはほんの「序章」にすぎないとしているxxii.これまで歴史家たちがこの暴動について,〈フロンドの乱〉の始まりとみなさなかったのは,おそらくパリ高等法院の関与が認められないからだろう.従来の「枠組み」では,とりわけ「高等法院のフロンド」というくくりでは,この市民の暴動は周辺的事情におかれるしかない.だからといって,このサンドニ街の騒動がパリ高等法院とまったく関わりのないところで起きたといいきれるのだろうか.

なるほど確かにこの騒動はパリ高等法院が煽動したわけではない.暴動は市民の間から自然発生的に生じたものだ.問題はこの「パリ市民」の中身なのである.当時のパリは,貴族や聖職者,富裕な町人階級から,貧しいその日暮らしの職人や乞食,芸人まで,じつにさまざまな身分や職業の人々がひしめきあって暮らしていた.そこにはパリ高等法院の法官たちも含まれている.そこで生活しているという意味では,彼らもまたパリ市民だったのである.

それにまたパリ市に対する課税は,税の種類こそ異なるが,富めるものにも貧しいものにも,身分や地位に関わりなく,すべての住民に負担を強いるものであった.財産のある住民には富裕者税〈エゼ〉が課せられたが,たとえこの税の対象とならない住民でも,日々の消費財にかかる間接税をのがれることはできなかったからである.つまりパリで生活する人々にとって,日増しに強まる税負担は共通の関心事となりえたはずなのである.法官たちもパリに生活する以上,決して無関心でいられなかったにちがいない.たとえば最高法院の裕福な法官のなかには,家屋税〈トワゼ〉の対象となるような違法建築を所有しているものがいなかっただろうか.パリ高等法院が,時には摂政政府の「不当な」税政策を受け入れたにしても,法官たちは,パリ市民への課税強化に関しては,直接の当事者であったのだ.

サン‐ドニ街の暴動には,課せられた税の負担に不満を訴えるパリの市民たちがいる.そして彼らはこの不幸のよって来るところ,すなわち摂政と宰相による戦時体制の税負担に異議を唱える.それが「以前のように」(それでも負担であることには変わりないが)――常態ordinaire ――になることを望んでいる.高等法院の求める常態が政治における「常態」であるなら,こちらは経済における「常態」を求めているといえるだろう.

ところで,サン‐ドニ街の暴動のような市民の行動は,統治に対する異議申し立てであるというかぎりにおいて反体制的であるといえるが,そこに大革命の予兆を見ることは可能だろうか.それはやはり性急すぎるように思われる.暴力的衝突がかならずしも「革命」に結びつくものでないことは周知のとおりである.〈フロンドの乱〉における市民たちもまた,体制の転覆という意図はなかったと考えるべきだろう.彼らは王制に反対しているわけではない.日々の生活を守ろうとしているだけなのである.こうした市民の「生活防衛意識」は〈フロンドの乱〉を通じて,さまざまな形で発揮される.そしてこの行動の原動力は,法官の社会的グループとしてのパリ高等法院のそれ――先に売官と〈ポーレット税〉のところで見た既得権益と制度的権威の維持――とははっきりと異なっているのである.

この暴動から約7ヶ月後の1648826日,高等法院の急進派ピエール・ブルーセルPierre Broussel 1567-1654?)逮捕に始まる〈バリケード〉des barricades,さらに翌164916日に起きる〈パリ包囲〉le blocus de Paris とパリが舞台になる大きな事件がふたつある.それぞれの事件で市民は重要な役割を果たしていくのだが,それは時間の経過とともに変化する.そして「群集」となった市民たちはやがて,それぞれの思惑を秘めたグループが自分たちの主張を反響させ,増幅させる装置となっていく.それでは,このふたつの出来事がどのような経過を辿ったのか時間を追って見てみることにしよう.

2.〈バリケード〉の二日間(1648826-27日)xxiii

2-1. パリ高等法院急進派逮捕と都市の自衛機能の発動

1月にパリで起きた高等法院における売官と〈ポーレット税〉をめぐる摂政側との対立やサン‐ドニ街の暴動から約7ヶ月後に,1648826日から27日にかけて,パリが〈バリケード〉で封鎖されるという大事件が起きた.5月の〈最高法院連合裁定〉から,この事件にいたる経緯は次のとおりである.

513日に〈最高法院連合裁定〉を宣言したパリ高等法院は, 630日から79日にかけて協議した結果を,〈27項目の意見書〉27 articlesにまとめて発表した.意見書の内容は主として税に関し,その改革と調整を求めるものであったが,同時にまたいくつかの国策に関する提案も含んでいた.私服を肥やす徴税官には厳しい追及を求めたし,むやみに人を逮捕監禁してはならないなど人身保護令に相当する要求も含まれていたxxiv. いずれにせよ,それは摂政と宰相の決定を制御しようとするものである.こうしたパリ高等法院の強い態度に対し,摂政側はひとまず寛容を示した. 731日には〈ポーレット税〉に関して従来どおりの条件で更新を認めると宣言したのである.だが,これに勢いを得たパリ高等法院は,大法廷評定官ピエール・ブルーセルを中心とする急進派が,腐敗した徴税官の摘発にじっさいに乗り出そうとしたxxv822日,3人の著名な徴税官──カタロン Catalon,ル・フェーヴル Le Fèvre,タブレTabouret ──が告発される.しかし,このようなことが続けば,徴税官に依存する摂政側には大きな打撃となる.そうしているうちに 820日,コンデ大公が北フランスのランス Lens でスペイン軍に勝利したという知らせが届いた.パリ高等法院はこの知らせに警戒心を強める.摂政側は,いずれ凱旋してパリに戻るであろうコンデ軍を使って武力によりパリを制圧することも可能だからである.事実,パリ高等法院に押され気味であった摂政側では,この朗報に力づけられ,一気に形勢逆転をはかろうとするxxvi825日,摂政側は,パリ高等法院の急進派ピエール・ブルーセルの逮捕に踏み切った.この出来事をきっかけに,パリは1648826日から27日にかけて,市民の築いたバリケードにより封鎖され,都市機能が完全に麻痺する.これが「〈バリケード〉の二日間」といわれる,前半の〈フロンドの乱〉における最初の武力衝突である.

この〈バリケード〉事件にパリ市民がどのように関与したかを理解するには,出来事の推移を追うのがもっとも早道であろう.

まず825日,最高国務会議 le Conseil d’en Haut ――摂政アンヌ・ドートリッシュ,国王の叔父ガストン・ドルレアン,宰相マザラン,大法官セギエ Pierre Séguier 1588-1672),国務卿シャヴィニー伯爵 Léon Bouthillier Chavigny, comte de 1608-1652――は,シャヴィニー伯爵の進言により,パリ高等法院の大法廷評定官ピエール・ブルーセルおよび2名の部長評定官 président ――シャルトン Charton(生没年不明),ド・ブランメニル René Poitier de Blancmesnil?-1680――を翌26日に逮捕することを決定したxxvii.シャルトンは逃亡して難を避けるが,ド・ブランメニルとブルーセルは翌日逮捕されるxxviii.摂政側の狙いは最初からブルーセルにあったので目的は達成されたといえよう.だが,問題はそれに対するパリ市民の反応である.

ブルーセルはシテ島la Cité のサンランドリー街 la rue Saint-Landryxxixの自宅で逮捕された.この逮捕からパリ市内の各地区にバリケードが築かれるまで,それほど時間はかからなかった.歴史家の意見では,このバリケードは,パリという都市の自衛の伝統に由来するxxx.当時のパリを区分する16の地区では,何か異変が起きた場合に,ただちに道路を鎖で封鎖,交通を遮断して治安維持にあたる自衛システムがあった.そのためにパリ市の自警隊 milice bourgeoise がかかえる民兵は,〈フロンドの乱〉のころにおよそ6,000から12,000人いたという.こうした費用は市役所 l’Hôtel de Ville が負担したxxxi.ブルーセル逮捕の直後から築かれたバリケードは,パリの集団的自衛機能が正しく発動したものなのである.

もっとも,各地区がこれほど迅速に行動できた背景には,この逮捕劇の前からパリ市が心理的警戒を強めていたからだろう.そう考える理由は,820日のランスにおけるコンデ大公の勝利にある.この知らせはパリ市民にも伝えられていた.コンデ大公の軍隊はいずれパリに凱旋してくる.そうなれば,パリ市民はどのみち略奪などの被害を受ける恐れがあった.たとえそれが凱旋する国王の軍隊であっても,市民にとって,軍隊は危険以外の何ものでもない.また状況からいって,コンデ軍が摂政政府の命令いかんによってはパリ高等法院に対し,あるいはパリで起きている暴動に対して,武力鎮圧のために使われる可能性もあった.こうして危機感が高まっている中へ,パリ高等法院評定官が逮捕されたという知らせが飛び込んできたのである.次に何が起きるにせよ,何事かが起きる前に自衛の策を講じておくのが賢明というものである.パリ市民にとって,バリケードによる街路の封鎖は,何よりもまず自分たちの生命や財産の安全を確保するための手段であった.じっさい,この〈バリケード〉の二日間に出た死者の数は,驚くほど少ないというxxxii.また暴徒の略奪に対しても都市の危機管理は十分に機能した.たとえば大法官セギエが逃げ込んだ屋敷が暴徒に襲われ,家具などの物品が奪われはしたが,それらはすみやかに元の持ち主に戻されている.こうしたエピソードは,パリ市の治安維持管理がうまく機能したことを示している xxxiii

しかしながら,こうした自衛システムがあっても,住民の不安や恐怖が和らぐものではない.むしろ,このときのパリ市民の対応の早さは,不安が大きかったことを表している.ブルーセル逮捕の知らせが市内を駆けめぐった時,彼らはバリケードの前に溝を掘り,さらに水を入れさえしたxxxiv.こうした念の入れようもまた,恐怖が尋常でなかったことを物語っている.こうして次に何が起きるかわからない状態で,パリの住民はバリケードの背後に身を潜めた.その後ろから「ブルーセルを釈放せよ」の声があがる.だが,なぜ彼らはブルーセルの釈放を求めることになるのか? 誰かが煽動したのだろうか? しばしば煽動者として,パリ副司教ポール・ド・ゴンディ――のちのレ枢機卿――の名があげられる.しかし,仮に煽動者がいたとして,パリ市民はなぜ簡単にその誘導に従ったのだろう.バリケードの影に身を隠してじっとしていれば,この災厄もやがては過ぎていくだろうに,市民は動いた.「ブルーセルを釈放せよ」の声は,いったいどこから沸きあがってくるのだろうか?

2-2ブルーセル逮捕の情報が市民に与えた影響

ブルーセルが逮捕されたのはシテ島である.自宅があったサンランドリー街はノートルダム大聖堂とパレ・ド・ジュスティスにはさまれている.折しもそのとき,ノートルダム大聖堂では,国王を筆頭に,摂政アンヌ・ドートリッシュや宰相マザランも臨席してフランスの戦勝を神に感謝する〈テ・デウム〉 Te Deum ――謝恩歌テ・デウムを歌う儀式――が執り行われていた.シテ島のもう一方の端を占めるパレ・ド・ジュスティスは,いうまでもなくパリ高等法院の砦である.ブルーセルの自宅はちょうどその中間にあった.また,その界隈には法官たちが多く住んでいたのであるxxxv.ブルーセルの逮捕はおそらく法官の家族や使用人によっても目撃されたであろう.法官たちにとっては同僚であり,事態の深刻さは直接的に理解されたはずである.そのニュースは口頭でまたたくまに広まったにちがいない.ブルーセルの次は自分や自分の家族かもしれないのである.情報の第一の発信者が法官やその家族であったなら,「ブルーセルが逮捕された」というニュースは事実の伝言だけでなく,「このまま見過ごしていいのか」というメッセージも含まれていたはずだ.

さらに事件が起きた場所の地理的特性をあげておかねばならない.対岸はパリ市役所,パレ・ド・ジュスティスの裏側にはポン・ヌフPont Neuf がある.前者は自警隊を組織するなどパリ市の行政の中枢であり,後者はパリでもっとも多くの人が集まってくる往来だ.どれも目と鼻の先の距離であり,そこまで情報が伝わるのにたいして時間はかからない.「ブルーセル逮捕」の一報は発信源からの「見過ごしていいのか」というメッセージをともなって同時にふたつの方向――パリ市の行政の中枢と一般市民――とにあっという間に伝搬したことだろう.この情報とメッセージは,次は何が起きるかと緊張しながら身を潜めている人々の行動に,ひとつの方向性をあたえることになったのではないだろうか.大急ぎでバリケードを準備しながら,その背後で彼らにできること――いやむしろ,しなければいけないと考えたのかもしれない――すなわちそれは,ブルーセルの釈放を要求することである.

ブルーセルの名前にはこうした効果をもたらすだけの力があった.73歳になるこの老評定官の名は,課税強化に強く反対し,徴税官の腐敗に追求の手をゆるめないことで広く知れ渡っていたからであるxxxvi.パリ市民は度重なる増税に強い不満をもっていた.それは暴動を引き起こすほどに高まっていた.しかも,111日から14日のサンドニ街の暴動が鎮圧されてからというもの,抑えつけられた不満が出口を失っていた.政治的発言権をもたない一般市民は,問題の是正を要求することさえできないでいる.だが,ブルーセルは,それをやってのけるのだ.パリ市民がブルーセルをあたかも自分たちの代弁者のようにみなしたとしても,無理からぬことである.そのブルーセルが逮捕されてしまったら,いったい誰が自分たちの「声」を王様の耳に届かせてくれるのか? バリケードの向こうで人々が「ブルーセルを返せ」の叫びをあげ始めたとしても,それは高等法院のためではない.人々が返してほしいと叫んでいるのは「自分たちの声」となってくれる誰かなのである.

おそらくバリケードの後ろからパリ市民の「ブルーセルを釈放せよ」という声があがるのに,特定の煽動者など必要としなかったのではあるまいか.同僚の逮捕を間近に見たパリ高等法院の法官たちも恐慌状態で,意図的かつ組織的に煽動を目的として動いたわけではないだろう.法官たちが発信した「ブルーセル(同僚)を返せ」というメッセージがバリケードの垣根を越え,人々に広まってゆく過程で,「ブルーセル(自分たちの声)を返せ」というもうひとつのメッセージと合わさり,ひとつの共通の意志が形成されていったのだろう.バリケードを築いたり,自警隊を組織するために,パリではブルジョワ家庭を中心にして,その使用人も動員された.自分たちの都市の防衛という名のもとに,パリは社会的身分を越えた団結を実現する.さらにそこに「ブルーセルの釈放」というひとつのスローガンを掲げることによって,人々はいっそう連帯を深め,ひとつの方向へと導かれてゆく.デシモンとジュオーも,「ブルーセル」がパリという都市のもつ自衛の伝統を表象するシンボルだったというようにxxxvii,〈バリケード〉の二日間においてパリ高等法院と市民はまさしく「ブルーセル」という名のもとに一致団結したのである.

2-3. 群集の力

国務顧問会議 Conseil d’État ではブルーセル逮捕後,パリ高等法院に集会を開かせないために大法官セギエをパレ・ド・ジュスティスへ遣わす.だが,セギエは群集に阻まれてそこまで行き着けなかった.そればかりか,既述のように,暴徒に襲われて民家へ逃げ込み,救出を待たねばならなかったのである.また,王の軍隊も法官たちがパレ・ド・ジュスティスへ集まるのを阻止しようとしたが果たせなかったxxxviii

一方,パリ高等法院長モレは,バリケードが築かれてから二日目,826日の夜が明けるとすぐに,ブルーセル,ド・ブランメニル両名の即時釈放を求めて王の宮殿(パレ・ロワイヤル)Palais-Royal へ赴いた.このときモレの後には150人とも160人ともいわれる大勢の法官が法服姿でしたがったが,さらにその後ろには,約20,000人のパリ市民が続いたといわれるxxxix.パリ高等法院は,文字通り,その背後にパリ市民を「味方」にしたがえたのであるxl.パリ市民はここでひとつの政治的行動をとったといえよう.だが,そこに何らかの政治的決断があったと考えるのはやはり過大評価である.パリ市民が法官たちの後に続いたのは,パリ高等法院を通じてでなければブルーセルの釈放を要求することができないからにすぎない.高等法院を支持したというより,むしろ高等法院に対して「摂政政府に交渉し,ブルーセルを釈放させよ」との圧力をかけているにすぎないのである.

これに対して摂政側はブルーセル釈放の交換条件として,4つの最高法院が即座に集会を中止すること,そして国務顧問会議の決めた政策に今後いっさい干渉しないことを要求した.これは高等法院にとっておよそ受け入れがたい条件であった.むろん交渉は成立せず,法院長モレ以下,法官たちはパレ・ロワイヤルを退出した.しかしパレ・ロワイヤルの前につめかけていた群衆は納得せず,彼らをふたたびパレ・ロワイヤルへ押し戻そうとする.このときの群衆のふるまいはきわめて暴力的であったようだxli.モレやその他の評定官は生命の危険さえ感じた.やむなく高等法院では,この条件を受け入れ,1111日までは政治的沈黙を守ることを決めるxlii.こうなると高等法院にとって,パリ市民はもはや自分たちの味方であるとはいいがたい.パリ高等法院は,ブルーセルの釈放を勝ち取って群衆を満足させるために,不本意でも摂政側の出した交換条件を呑まねばならない立場に追い込まれてしまったからである.市民の圧力は今度は摂政側にとって有利に働いていた.群衆は,パリ高等法院にとって両刃の剣となった.だが,パリの群衆はこのときに限らず,〈フロンドの乱〉において常に,どの政治勢力にとっても両刃となったのだ.この〈バリケード〉事件を機に,「群集」は「ひとつの力」としてあらためて認知されたのである.もちろんパリが御しにくいのは,この時代に始まったことではない.だが,おそらくこのとき,抑圧するのはむずかしいとしても,方法によってはその力を自分たちに有利に導くことも可能だということに,人々は気づいたはずである.そして,宗教戦争以来,政治に利用されるようになった印刷術という大量複製技術が,それを実現してくれるだろうということにも,同様に考えが及んだであろう.それが〈フロンドの乱〉に特有な大量の文書につながっていくと考えられるのである.

828日午前,ブルーセルは釈放され,パリのバリケードは解かれた.830日,摂政に対し敬意と忠誠を示すために,パリの自警隊責任者と主要な同業者組合がパレ・ロワイヤルを訪れ,パリ市と摂政の間で和解が確認される

3.〈パリ包囲〉(164916日─41日)

3-1. 王の不在

首都がふたたび騒然となるのは,翌16491月のことである.パリ高等法院はあいかわらず摂政側と対立していた.15日,公現祭の前夜,宮廷は予告もなくサン‐ジェルマン‐アン‐レー St-Germain-en-Laye の離宮へ移動する.同時にコンデ大公の軍隊がパリを封鎖した.〈パリ包囲〉の始まりである.

宮廷がパリを離れたのは,パリ高等法院とパリ市に対して圧力をかけるためであるxliii.国王がパリを離れ,そのあと武力で威圧することによって,膠着状態の政局を打破しようとしたのだ.結果的にそれが,王国内で微妙な均衡を保っていた諸勢力の対立を顕在化させることになってしまうxliv.そしてこの事件をきっかけに,〈フロンドの乱〉は前年の〈バリケード〉の時点とは異なる様相を見せ始めるのである.だが,そのことについてはもう少し先で述べるとして,ひき続きパリ市民の目線にそって,この出来事を追っていくことにしよう.

15日の夜に宮廷がパリを離れたことが知れるや否や,身分や職業にかかわらず,パリは文字通り恐慌状態に陥ったxlv.国王の不在という,ただそれだけのことが,なぜ大きなパニックにつながるのか? パリでは,国王がそこにいることによって,どのような状況においても最悪の事態だけは免れえると考えられていたからである.確かに,パリには自衛のための民兵組織があり,それはすでに〈バリケード〉の二日間で見たように,きわめて優秀に機能した.けれども,今度のように王がパリに不在であっては,いくら自警隊がいたとしても,訓練された軍隊に何ほどの抵抗ができようか.市民は,あたかも丸裸でコンデ軍の前に放り出されたような恐怖をおぼえたにちがいない.たとえ自警隊が略奪や暴行をうまくくい止めたとしても,外部から食料や生活物資が入ってこなければ,パリの生命は断たれたも同じことなのである.それゆえに,このときのパリ市の対応はすばやかった.民兵に召集がかかるとともに,市役所では市参事会員たち les échevins がいち早く宮廷に使節を送ることに決定した.国王がパリを離れた理由を問うためである.

これに対して,パリ高等法院は市参事会員たちに自分たちと協調行動をとることを強く要請する.それは民兵が市役所によって統括されているためである.しかし,パリの市参事会員たちは高等法院に同調すべきかどうか態度を決めかねていた.そうしているうちにも市役所の前には続々と群衆が集まり始める.市役所では宮廷に送った使節の返事を待つことになったxlvi

さて,市役所が送った使節に対し,摂政アンヌ・ドートリッシュがよこした返事は,4つの最高法院がパリを離れるならば,宮廷は喜んでパリに戻るであろうというものであった.17日,じっさいにそれぞれの最高法院に対し,高等法院はモンタルジ Montargis ,会計監査院はトゥール Tours ,援税院はポワティエ Poitiers,大顧問会議はマント Mantes への移転が命じられたxlvii.しかしながらこの交換条件はきわめて非現実的であった.市役所前に集まった群衆は,パリ高等法院の移転も,国王の不在もともに望まなかったからだ.市役所は宮廷と高等法院と群衆の間で板挟みとなってしまった.内部では,あくまでも宮廷に忠実に従おうとする意見と,パリ高等法院と協働して宮廷に対抗しようという意見が対立している.さらに,現実問題として,治安だけでなく,市民の生活物資の確保も考えねばならなかった.コンデ軍は完全にパリを占拠していたわけではなかったが,主要な門が封鎖され,このまま包囲が続くなら,食料が底をつくのは時間の問題であった.パリ市はいずれ,より積極的な自衛手段,すなわち包囲の強行突破を実行しなければならなくなるだろう.

そして18日,パリ高等法院は,こうした事態を引き起こした元凶として,宰相マザランを「公衆の安寧を攪乱したる罪 perturbateur du repos public」により告発する.その告発状はインクも乾かぬうちに,大法廷の前で群衆に読みあげられたというxlviii.すると群衆はマザランの首をもとめて叫び声をあげたのだxlix.高等法院はこの告発に引きつづいてすぐ,武器の準備を始めたl.こうした状況のなかで,市役所では宮廷にあくまで忠実であろうとする商人頭(実質的なパリ市長)prévot des marchands が辞任し,武力対決を求めるパリ高等法院が全体の流れを支配することになった.

ところで,武力によって対抗するにしても,パリを包囲するコンデ軍は正規の軍隊であり,対するパリ高等法院や自警隊の民兵は,戦争には不慣れな民間人の集団である.力の差は歴然であった.そこでパリ高等法院が考えたのは,宮廷に不満をもつ大貴族に応援を求めることだ.111日,パリ高等法院は,パリを包囲しているコンデ公の弟,コンティ公 Armand de Bourbon, prince de Conti1629-1666)を招聘し,パリ市民の総司令官 généralissime des Parisiens に任命する.

3-2. 政治的賭金の多様化

フロンドの乱の前半を「高等法院のフロンド」,後半を「大貴族のフロンド」と呼ぶにしても,前半に貴族たちがまったく関わらなかったわけではない.しかしながら,公に大貴族たちがこの内乱に介入してくるのは,パリ高等法院によるコンティ公の総司令官任命のころからである.

そのほかにも,宮廷に不満や野心をいだく貴族たちが,進んで協力を申し出た.たとえばピカルディ総督エルブッフ公 Charles II de Lorraine, duc d’Elbœuf, gouverneur de Picardie1596-1657は,ギーズ家 maison de Guise の分家であり,ルイ13世の不興を買って1643年まで亡命していたが,宮廷への遺恨とコンデ家への対抗心から,早々と高等法院への加勢を決めた.パリ高等法院では19日に,このエルブッフ公を民兵組織の総指揮官 général として公式に認めているli.コンティ公とノルマンディー総督 gouverneur de Normandieロングヴィル公爵らがパリに到着したのは,その翌日である.先に民兵の総指揮官に任命されたエルブッフ公との待遇の釣り合いを考えて,111日,パリ高等法院では,コンティ公をパリ市民の総司令官に任命したlii.続いて,113日にはボーフォール公François de Bourbon-Vendôme, duc de Beaufort1616-1669)もパリに着いた.この公爵もまた,1643年の宰相マザランに対する陰謀(〈要人たちの謀議事件〉La cabale des Importants )以来,宮廷に対する不満をくすぶらせていた.その他にもブイヨン公 Frédéric-Maurice de la Tour d’Auvergne, duc de Bouillon1605-1652),テュレンヌ子爵 Henri de la Tour d’Auvergne, vicomte de Turenne1611-1675),ラ・モット-ウーダンクール伯爵 Philippe, comte de La Motte-Houdancourt1605-1657),ノワルムーティエ侯爵 Louis II de La Trémoille, marquis puis duc de Noirmoutier1612-1666,ラ・ロシュフーコー公爵 François VI, duc de La Rochefoucauld 1613-1680)などが,続々と名乗りをあげてパリ高等法院に集結する.118日にはポール・ド・ゴンディ副司教も正式に高等法院のメンバーとして認められた.さらに貴族の女性たち――コンデ家の長女であるロングヴィル公爵夫人やリシュリューの時代からつねに反体制の陰謀に加担してきたことで有名なシュヴルーズ公爵夫人 Marie de Rohan, duchesse de Chevreuse 1600-1679 ――も加わった.これらの貴族たちは,しかし,パリ高等法院にとって,かならずしも望ましいとはいえない味方であった.

事実,大貴族たちが表立って動き始めるこの時期から,〈フロンドの乱〉は初めのころと異なる展開を見せ始めるのである.それはもはやデシモンとジュオーがいうところの,「非常態」と「常態」の対立には還元しえないような,さまざまな政治的利害が対立し,接触したり離れたりしながら,モザイクのように複雑な模様を描き出すからである.さらに,この時期には司法関係の職についている聖職者やパリ大学もまた,団体として高等法院に協力を申し出るliii.ここにおいて〈フロンドの乱〉の主役たちはすべて舞台に出そろった.だが,いいかえればそれは,パリ高等法院や,市役所やパリ市民だけの対立ではなくなったということだ.〈フロンドの乱〉はこの〈パリ包囲〉を境に,明らかに,そして急激に変化する.もはや争われているのは課税問題にはとどまらない.それぞれの党派,勢力が自分たちの賭金をそこへ投入し始めるからである.

3-3. 内乱の拡大

16日に始まる〈パリ包囲〉は41日の和平宣言までおよそ3ヶ月間続く.この短い期間に,国王軍によって包囲されたパリの中で,兵糧攻めにあいながら〈フロンドの乱〉は様相を一変した.詳細は後にまとめる年表に譲るとして,この間に起きた一連の出来事を主要勢力の関係をとおしてまとめておくと,次のようになる.パリ高等法院は41日のサン‐ジェルマン‐アン‐レーにおける和平宣言まで,宮廷との折衝において「代表者」としての役割を担ってはいるが,パリ市民とはかならずしも協調関係にあったとはいえない.確かに,高等法院,市役所,パリ市民の三者は,包囲を解くという目的においては一致していた.しかしながら,1月にセーヌ川の洪水に見舞われた上に,食糧・物資も欠乏し, 2月に入って,パリ市民と高等法院との間は決裂する.パリ市民の離反は,パリ高等法院にとって痛手である.だが,210日に起きたような戦闘を交えずには小麦一粒も手に入らないという状態は,市民にとってまことに深刻だった.じっさい,市民が銃を取って包囲を突破するのは,生きるためにほかならない.市民にとってその他の政治的利害はすべて副次的でしかなかった.また, 34から11日のリュエイユ,41日のサン‐ジェルマン‐アン‐レーで和平交渉にあたったパリ高等法院は,もはや前年の〈バリケード〉のときのように対宮廷の話し合いだけで問題を解決するわけにはいかなくなっていた.大貴族や諸団体という,さまざまな方向からの干渉も調整しなければならなかったからである.そうした干渉は国内に限らなかった.219日のスペインからの使者,322 日のスペイン軍によるピカルディ進駐のように,外国からの圧力も加わってきたからである.貴族たちの中にはこうしたスペインの干渉を利用しようと考えている者もいた.

1648年に始まったフロンドの乱は,16491月から4月にかけての〈パリ包囲〉を境に,もはや発端となったパリ高等法院とパリ市民の課税に対する反発にとどまらず,大貴族や諸団体の参入により政治的にも地理的にも拡大し,またそれによって外国からの内政干渉を受ける余地も生じ,王国全体をさらに大きく揺さぶる内乱に発展した.

3-4. 地方への波及

これまでのところ,わたしたちはパリでの出来事を中心にして見てきたが,〈フロンドの乱〉は首都だけが混乱に陥ったわけではない.各地方でも同様にそれぞれの高等法院と地方総督の間で衝突が起きている.しかしながら,各地方における紛争は,それぞれが独自の地域的特性および歴史的背景をもつので,ここではそれらを個別に取りあげることはしない.だが,のちにとりわけ深刻な事態に陥ったボルドー Bordeaux については,やはり少しでも言及しておく必要があるだろう.最終的に〈フロンドの乱〉が終結するには,1653年のボルドーの鎮圧を待たなければならないからだ.

ボルドーとパリの共通点は,やはり発端が課税強化への不満と新官職増設への反発から始まっていることだ.課税に関しては,とりわけワインへの課税が地域的特色としてあげられる.武装化もまたパリと同様に都市の自衛機能による.だが,いずれにしても,〈フロンドの乱〉はパリからやがて地方へと波及的に拡大していったので,ボルドーにおける武力衝突は,1649年の春以降,すなわち〈パリ包囲〉が鎮静化へ向かった時点から後に始まるliv.こうして首都から波及した地方での混乱がさらにいっそう拡大するのは,1650118日の出来事,すなわち〈大貴族の逮捕〉以降である.

1649818日,ようやくパリへ戻った宮廷は,市民に歓喜をもって迎えられた.だが,国情は少しも改善されたわけではなかった.1648年のウエストファリア条約 les traités de Westphalie によってドイツにおける30年戦争は一応終結したが,ハプスブルク家の脅威が去ったわけではなく,フランスはあいかわらずスペインとの戦争をつづけていかねばならなかった.したがって財政逼迫はつづいている.だが,市民にとっては,ウエストファリア条約で戦争はもう終わったはずなのに,なぜ重い税が必要なのか,納得しかねるのである.パリでは,市役所を支払い債務者とする定期金 la rente sur l’Hôtel de Ville ――じっさいには市役所を仲介とする一種の王債――の支払いが滞っており,また暴動が起きた(1211日)lv.宮廷内では,9月から12月にかけて,コンデ,コンティ,ロングヴィルら3人の大貴族と摂政側の対立がしだいに深まっていく.翌1650118日,宰相マザランはこの3人の大貴族の逮捕に踏み切った.そしてこの出来事を発端とし,ふたたび王国は混乱に陥る.これが「大貴族のフロンド」と呼ばれる〈フロンドの乱〉後半部である.軍事力をもつ貴族たちが主体となっているだけに今度は激しい武力衝突をともなった.後半の経過に移る前に,わたしたちはこれまでの前半を《年表》にまとめておこうlvi

《年表 I

1648年-1649

1648

110 パリ高等法院にて訴願審査官職72名が団結し,新たな官職の売買に関する王令を登録しないように訴える.

111日-114日 サン‐ドニ街にて重税を不満とする群集の暴動が起きる.

115 パリ高等法院で開かれた国王親裁座にて,摂政側は問題の売官を含む財政関係の諸王令を強制的に登録させる.訴願審査官たちのストライキ続行される.オメール・タロンの演説.

116 パリ高等法院は前日の王令の登録を無効とする.同時に「国王親裁座にて登録された王令を高等法院が覆せるか」という議論が始まる.

217 摂政アンヌ・ドートリッシュ,議論の答えを出すよう求める.

220 パリ高等法院は「歴史的にも王権は法に従うもの」であり,「高等法院の権威は王権と密接に結びついている」が故に,摂政より優位に立つとの結論を示す.

430 国王宣言により,パリ高等法院をのぞく3つの最高法院にのみ〈ポーレット税〉の更新が認められる.

513 〈最高法院連合裁定〉により,4つの最高法院――パリ高等法院,援税院,会計監査院,大顧問会議――が団結する.

523 摂政は封印王状にて4つの最高法院に集会を禁止する.

6 宰相マザランに対する非難の声が高まる.

616 パリ高等法院では〈最高法院連合裁定〉を投票で再確認.一方和解の道も模索される.

6月中旬 ガストン・ドルレアンが摂政とパリ高等法院の調停役となる.摂政アンヌ・ドートリッシュは〈最高法院連合裁定〉を受け入れ,集会の禁止を無効と認める.

624 聖ヨハネの祭で宮廷はパリ市庁舎前広場に姿を現し,市民との関係改善に努める.権威をめぐる摂政とパリ高等法院の争いとは無縁な町民階級はこれを受け入れる.

630日-79日 パリ高等法院で,腐敗した徴税官に対する取締りや人身保護令に等しい取り決めを含む〈27項目〉の改革が議論され,官報に発表される.財務監査長官パルティセリ失脚.

7月中旬 パリ高等法院における宰相マザランに対する糾弾が頂点に達する.和解のための交渉が進む.

731 摂政側は国王宣言によりパリ高等法院に完全譲歩の姿勢を見せる.〈ポーレット税〉の更新が認められる.

85 急進派の評定官ブルーセルが徴税官の腐敗をあくまで追求する姿勢を譲らず.ガストン・ドルレアンは調停役として苦慮する.

820日コンデ大公がランスでスペイン軍に大勝利を収める.パリ高等法院は宮廷側の巻き返しに警戒を強める.

822 もっとも有名な3人の徴税官が逮捕される.

826 ブルーセル逮捕

826-27日 〈バリケード〉の二日間.パリ高等法院の150人の法官が摂政アンヌ・ドートリッシュと面会.20,000人の市民が付きしたがった.

828 ブルーセル釈放

830日 摂政アンヌ・ドートリッシュとパリ市の和解成立.

95日-104日 摂政側が731日の国王宣言を再確認し,最終的にパリ高等法院との和解にいたる

913 宮廷はパリを離れ,リュエイユにあるリシュリューの姪の城へ移動.摂政とパリ高等法院の和解がまだ成立しないうちに宮廷がパリを離れたことにより,パリ高等法院と市民たちの反マザラン感情があおられる.

923 パリ高等法院は1617年の裁決「外国人の国事行為の禁止」により,マザランを公に糾弾する.

1024日 ウエストファリア条約.

1031日 宮廷はパリへ戻る.

11月-12月 摂政側が再確認した731日の国王宣言を守らないことに対して,パリ高等法院から抗議の声が高まる.

1649

15 宮廷は突然パリを離れ,サン‐ジェルマン‐アン‐レーの離宮へ移動.パリがコンデ軍によって包囲される.

16 パリ高等法院,パリ市,それぞれが事態の把握と解決策を求めて行動する.

17 摂政側よりふたたび4つの最高法院に分散の王令.

18 パリ高等法院,宰相マザランを「公衆の安寧を攪乱した」として告発.告発状を公衆の面前で読みあげる.パリとサン‐ジェルマン‐アン‐レー間の往来は「通行証」により管理される.

19 パリ高等法院,エルブッフ公を民兵組織の総指揮官に任命する.

111 パリ高等法院,コンティ公をパリ市民の総司令官に任命する.そのほかにも宮廷に不満をもつ貴族たちが続々とパリへ到着する.

113 王の権威の象徴であるバスティーユBastille が非暴力的に占拠される.セーヌ川洪水.

116 パリへの穀物輸送の拠点であるコルベイユ Corbeil が国王軍によって占拠される.

121 パリ高等法院,国王に建白書を送る.

123 国王からパリ高等法院を非難する宣言が出される.

125 パリ高等法院,宰相マザランの財産没収・競売命令を出す.

126 パリで徴税官ラ・レイエール逮捕.

128 ロングヴィル公爵夫人,内乱のさなか,パリ市庁舎にて男児を出産.

22 国王軍によりパリ近郊(南)のソー Sceaux およびフォントネ‐オー‐ローズ Fontenay-aux-Roses が略奪と焼き討ちにあう.過激な貼り紙が増える.

28 フロンド側の守備していたパリ南西のシャラントン Charenton が王軍によって占拠される.これによりパリは完全にコンデ軍により包囲された.

(バスティーユ陥落以来,優勢を保ってきたフロンド側は一転して形勢が不利になり,パリ高等法院はこれをきっかけに宮廷側との和平交渉へ動き出す.)

210 ボーフォール公爵とラ・ロシュフーコー公爵の援護により,ノワルムーティエ侯爵が,戦火の中,パリへ生活物資を輸送する.

(食糧不足が原因でパリ高等法院とパリ市民の間が分裂.)

212 ポール・ド・ゴンディとブイヨン公爵は,パリ高等法院長の反対にもかかわらず,王令をもってきたアンヌ・ドートリッシュの伝令をパリへ入れる.

213 のちに列聖される司祭ヴァンサン・ド・ポール Vincent de Paul1581-1660)が,サン‐ジェルマン‐アン‐レーの宮廷を訪れ,慈悲をもってパリに小麦を運ぶのを許すように説くが,聞き入れられず.

219 ポール・ド・ゴンディとブイヨン公爵は,コンティ公をうながして,パリ高等法院に対し,ネーデルランド総督レオポルド‐ギヨーム大公 archiduc de Léopold-Guillaume de Habsbourg, gouverneur des Pays-Bas 1614-1662が送ってきたスペインの使者を受け入れさせる.(イギリスでは清教徒革命によってチャールズ1世が処刑される.)

227 ブリ-コント-ロベール Brie-Comte-Robert が国王軍の手に落ちる.

34-11日 リュエイユにおいて,宮廷とパリ高等法院の間で和平交渉が行われる.

313 リュエイユでの和議に反対して,パリでは暴動が起きる.

315 パリ高等法院,リュエイユにおける和議を承認.

316-30日 サン‐ジェルマン‐アン‐レーにおいて,パリ武装解除のための話し合いが行われる.

322 スペイン軍,フランス北部のピカルディPicardie に進駐する.

41 サン‐ジェルマン‐アン‐レーにおいて,和平の宣言が行われ,パリ高等法院がこれを確認する.確認事項はおよそ7点.1)パリ高等法院はサン‐ジェルマン‐アン‐レーにおける国王親裁座に列席する.24つの最高法院は1649年の終わりまで合同集会を開かない.3164916日以降の裁決(特にマザランを告発するもの)に関しては無効とする.4)高等法院が蜂起させた軍隊は解散する.5)パリ市民は武装解除する.6)スペインからの使者はすみやかに首都から退去させる.7)バスティーユと工廠(アルスナル) l’Arsenal は国王へ返還するlvii

430 宮廷はコンピエーニ Compiègne へ移動.ボルドーの情勢は悪化.

522 マザラン,姪の縁組をめぐり,コンデ家と対立.

6月中旬 王の帰還を待望する声がパリ市民の間で強まる.マザランに対する態度も軟化.

818 宮廷がパリへ戻り,前半の〈フロンドの乱〉は終結する.

9月-12月 コンデ派と宮廷の緊張関係が高まっていく.

12月初旬 不払いがつづいているパリ市の定期金債権者を煽動する貼り紙.パリ市内で暴動.

II. 大貴族のフロンド〉(1650118日─1653731日)

1. 反コンデの政治情勢

大貴族のフロンド〉のきっかけとなる,コンデ大公,コンティ公,ロングヴィル公爵の逮捕はどのような経緯をとったものか.コンティ公,ロングヴィル公爵に関しては,すでに〈パリ包囲〉のときに高等法院への援助を申し出たことにより,「フロンド派 frondeur 」と目されていた.だが,コンデ大公は,それまで宮廷側だった人物ではないのだろうか.コンデ大公には逮捕されなければならないどんな理由があるのか.コンデ大公をめぐる変化が後半のフロンドを解く鍵につながると考えられるゆえんである.

コンデ大公は「血のプリンス prince du sangと呼ばれる.国王とは血縁関係にある男子の王族で,武人の誉れ高く,スペインとの戦争ではフランスに勝利をもたらした英雄である.未成年の国王にとって,親戚としてこれほど心強い守護者はいなかったのではないだろうか.事実,前半のフロンドにおいて,軍を率いて宮廷を守り,首都を包囲し,パリ高等法院に対抗したのは,ほかならぬこのコンデ公である.しかしながら,軍事力をもっているだけに,むしろ摂政と宰相にとっては,これほど危険な人物はなかったのである.コンデ家は,アンリ4世の父ナヴァール王アントワーヌ・ド・ブルボン Antoine de Bourbon, roi de Navarre の弟に始まる筆頭親王家である.コンデ大公には,アンリ4世の直系であるルイ13世とガストン・ドルレアンの血統が絶えたとき,王位を継承する権利が認められていたlviii.大公が王位を狙っていたかどうか,それは今,問題ではない.重要なのは,コンデ大公が王冠にそれだけ近いことから,彼がもちうる「権威」なのである.具体的には,その発言の影響力なのだ.もともと王族の中でも特別な立場を有するうえに,スペインとの戦争のみならず,〈フロンドの乱〉に際しても,国王の守護者として活躍したことは,宮廷内外でのコンデ大公の発言力をいやがうえにも強めることになる.コンデ大公の勢力がこのように突出することは,摂政にとっても宰相にとっても好ましいことではなかった.彼らだけでなく,パリ副司教のポール・ド・ゴンディやパリ高等法院などにとっても同様に,無視できない.宮廷での発言力はそのまま政治力になる.じっさい,パリを封鎖してからのコンデ大公は,国務顧問会議の決定に自分の意見を入れるように要求し始めていたlix.微妙な均衡の上に成り立っている勢力争いであればこそ,コンデ大公のように政治的な力と物理的な力をふたつとも行使しうる人物がその力を増すことは,どの陣営から見てもたいへん不都合なことだ.それゆえに摂政側も反摂政側も,ともに反コンデへと傾いていくのである.

2. 大貴族たちの逮捕後

1650118日にコンデ大公がコンティ公,ロングヴィル公爵とともに逮捕された背景には,こうした政治情勢があったlx.だが,逮捕は結果的に,コンデ大公の力を封じ込めるどころか,逆に作用する.今度は逮捕された大貴族の釈放をめぐって,貴族たちの力が結集していくからである.しかも,彼らはラ・ロシュフーコー公爵のように剣の貴族たちであり,地方に自分たちの城や領地をもっていた.〈大貴族のフロンド〉が国王の絶対的権威が確立される前の,封建貴族による最後の反乱であるといわれるのはそのためである.〈フロンドの乱〉はこうして各地の激しい戦闘へと発展していく.

首都を中心にパリ高等法院と宮廷が対立した前半に比べると,こうして1650年以後の〈フロンドの乱〉は,パリから飛び火していた地方の混乱を拡大する.コンデ大公とコンティ公の姉,ロングヴィル公爵夫人はただちに夫が総督をつとめるノルマンディー Normandie 地方に出発し,蜂起をうながした.宮廷はこれを鎮めるため国王をともなってノルマンディーへ移動しなければならない.未成年の国王をともなったのは,文字通り誰が統治者であるかを見せるためであったlxi.ノルマンディー地方は224日に鎮静化し,宮廷はパリへ戻る.すると今度はコンデ大公夫人 Claire-Clémence de Maillé, la princesse de Condé が長子アンギャン公 Henri-Jules III, le duc d’Enghien を連れギュイエンヌ Guyenne地方へ出発.61日,コンデ大公夫人はボルドーの高等法院に庇護を求めて受け入れられ,ブイヨン,ラ・ロシュフーコー両公爵も軍勢を率いて到着.宮廷はその鎮圧のため,また7月に入るとすぐに国王をともなってギュイエンヌ地方へ移動しなければならなかった.途中,戦闘を交えながら前進する宮廷が,コンデ大公夫人の明け渡したボルドーへ無事入ることができたのは,ようやく10月になってのことである.10月半ばに宮廷はパリへむけて帰還の途に着くが,しかしボルドーの紛争はそれでおさまるわけではない.結局のところそれは〈フロンドの乱〉の最後まで延々と続くことになるのだ.

しかし,こうした事態になってもなお,宮廷はコンデ大公らの釈放に応じなかった.1115日,宮廷はボルドーからパリへ戻ると同時に,ヴァンセンヌ Vincennes に幽閉されていたコンデ大公らの身柄をパリから,はるかに遠方のル・アーヴル le Havre へ移した.12月に入ると,コンデ大公夫人はパリ高等法院に彼らの釈放を要求する.そしてこの時期から,コンデ大公らの釈放を求める声が高まってゆくのである.年が明けて120日,パリ高等法院は国王に対し3人の釈放を求める建白を行なった.つづいて130日には,ガストン・ドルレアンとパリ高等法院のフロンド派,および逮捕された3人の大貴族を擁護する人々が,コンデ大公らの釈放と宰相マザランの追放を求める秘密協定を結ぶ.22日,これまで宮廷とパリ高等法院,フロンド派の仲介役をつとめてきたガストン・ドルレアンは,宰相が臨席するかぎり,国務顧問会議へは出席しないことを宣言.こうしていよいよ213日,ル・アーヴルにて,マザラン自ら3人の大貴族を釈放せざるをえず,彼らがパリへ戻って歓呼の声で迎えられるのと入れ代わりに,マザランが国外へ亡命することになるのだ.

このようにして,コンデ大公ら大貴族の逮捕から釈放まで約一年の経過をながめると,後半のフロンドは3人の釈放を求めて争われたかに見える.なるほど確かに逮捕されたのが王族も含む貴族たちであってみれば,一族が彼らの釈放を求め,武力をもって対抗しようとするのは当然だろう.だが,彼らが釈放されたあとも政治的混乱は続くのである.

3. 共通の標的:マザランの追放

前半のフロンドでは,パリ高等法院が,王制における「摂政」や「高等法院」などの権限をめぐる理論を行使して反発したとするなら,後半のフロンドでは,大貴族たちが,理論ではなく,力で反発する.しかし彼らはいったい何に反発するのだろうか.絶対王政に対する封建貴族の反乱という図式は確かに収まりはいいが,当時の貴族たちに,「王の絶対的権威」が自分たちの利益に反するという連帯意識があったのだろうかという問題が残る.彼らにとって,「王」とは,始まりから常に「絶対的な存在」だったのではないだろうか.騎士道物語が今は昔になってはいても,やはり身分社会であるかぎり,そして自分たちが剣の貴族であるかぎり,新興の法服貴族たちと自分たちを分かつのは,その身分の頂点にいる「王」との距離,その近さだったはずだ.そこでむしろ,この「王」との距離を心理的にも物理的にも遠ざける障害――すなわち摂政や宰相の存在――が彼らに不満を生じさせたのではないかと考えられるのである.それは後半で,マザランが2度目の亡命を余儀なくされたことに表れている.前半においては,どれほどパリ高等法院が宰相を告発しようと,マザランの追放にはいたらなかった.だが今度は,封建貴族たちを鎮めるために,一時的にせよ,摂政はマザランを遠ざけねばならなかったのである.後半の〈フロンドの乱〉を特徴づけるのは,こうしたマザランの亡命と,そして鎮圧のため各地を巡行する幼い国王の姿である.

1651130日に結ばれたガストン・ドルレアンとパリ高等法院の一部,およびコンデ派の秘密協定に見るように,宰相マザランの追放は,封建貴族たちだけの希望ではない. 3人の大貴族が釈放され,マザランが国外に退去したあとも,マザランに対する告発は続き,より激しさを増す.後半では諸勢力の対立もまた暴力をともなってさらに激化するが,反マザランの立場だけは諸派の共通の標的のようにしていよいよ明確になってくるのである.

〈フロンドの乱〉は1649年の〈パリ包囲〉以後,多くの貴族たちの参入によって,当初の課税問題だけでなく,さまざまな政治的賭金が持ちこまれるようになった.デシモンとジュオーはその時点において,政治的均衡はもはや「常態と「非常態の対立ではなく,たがいに競り合う党派間のバランスに変わっていたするlxii.なるほど,前半のフロンドの終わりには,宮廷対パリ高等法院という対立図式から諸派の勢力争いに移っていた.〈フロンドの乱〉の賭金は,確かに多様化したといえよう.しかし,後半のフロンドでは,マザランの亡命に結びつき,かつ亡命の後にもいっそう激しさを増す「マザランの排斥」が標的として突出してくるのだ.利害が対立するにもかかわらず,マザランが共通の「敵」と見なされるとすれば,それはなぜか.また,それはどのような核心となるのか.次の章ではマザランを中心に,その問題を考察する.だがその前に,マザラン排斥の動きと亡命を中心にして,後半のフロンドを年表にまとめておくことにしよう.

《年表 II

1650年-1653

1650

118 コンデ大公,コンティ公,ロングヴィル公爵ら,3人の大貴族が逮捕されヴァンセンヌに幽閉される.

121 ロングヴィル公爵夫人,蜂起をうながすためノルマンディーへ出発.

22 宮廷,ノルマンディーへ向けて出発.

224 ノルマンディー制圧後,宮廷,パリへ戻る.

35 宮廷,ブルゴーニュへ向けて出発.

411 コンデ大公夫人,息子アンギャン公爵をともなって,ギュイエンヌへ出発.

52 宮廷,パリへ戻る.

59 ロングヴィル公爵夫人らに対し「公衆の安寧を攪乱し,大逆罪を犯したるもの」とする国王宣言がなされる.

61 ボルドー高等法院はコンデ大公夫人および息子を保護することに決定.

62 ラ・ロシュフーコー,ブイヨン両公爵,ボルドーへ入る.

74 宮廷,ギュイエンヌへ向けて出発.

920 宮廷側とボルドーの高等法院のあいだに和平交渉が始まる.

101 コンデ大公夫人,ボルドーを立ち退く.

102 ボルドーにおける和平宣言.

105 国王,ボルドーへ入市.

1015日宮廷,パリへ戻るために,ボルドーを出発.

1115 宮廷,パリへ戻る.コンデ大公,コンティ公,ロングヴィル公爵ら,3人の大貴族,ヴァンセンヌからル・アーヴルへ移送される.

122 コンデ大公夫人,3人の大貴族の釈放をパリ高等法院に訴える.

1230日パリ高等法院,3人の大貴族の釈放を国王に求める建白を決定する.

1651

120 パリ高等法院による3人の大貴族の釈放を求める建白が行われる.

130 ガストン・ドルレアン,パリ高等法院のフロンド派,および逮捕された大貴族の擁護派は,3人の釈放とマザランの追放を求める秘密協定を結ぶ.

22 マザランとガストン・ドルレアンの関係は決裂し,ガストン・ドルレアンは以後,国務顧問会議への出席を拒否.

24 ポール・ド・ゴンディとガストン・ドルレアンの煽動で,パリ高等法院では,3人の大貴族の即時釈放とマザランの追放を求める建白が裁決される.

26 マザラン,パリを離れる.

27 パリ高等法院によりマザランとその一族の追放が裁決される.

29 パリ高等法院により,再度,マザランとその一族の追放が裁決される.

210 摂政アンヌ・ドートリッシュはパレ・ロワイヤルに軟禁状態となり,3人の大貴族の釈放に同意.貴族と僧侶階級が三部会の開催を要求するために集合する.

213 マザラン自身の手により,コンデ大公,コンティ公,ロングヴィル公爵ら3人の大貴族がル・アーヴルで解放される.マザラン,最初の亡命.

216 解放された3人の大貴族がパリへ凱旋する.

32 パリ高等法院は国務顧問会議からすべての枢機卿を排除する裁決をする.

312 パリ高等法院にて,マザランに対する告発が始まる.

43 大貴族側とフロンド派の最初の内紛.

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