一丸禎子 ― 『マザリナード文書とは何か』 ――コーパスとしての東京大学コレクション―― 東京大学博士論文、2006年9月19日
第2部
辞書による表現がかならずしも「実体」と一致するとはかぎらない.辞書が常に今ある現実を反映するとはかぎらないからである.「マザリナード文書」がどんなものかを知るためには,現実に「もの」として存在するそれを見ることが必要である.わたしたちはここで具体的に,東京大学総合図書館に所蔵されるコレクションを「マザリナード文書」として観察してみたい.このコレクションは1970年代に日本の貿易黒字を解消するために購入され,旧国立大学共有財産となっているものだが,2,000点を優に超える巨大なコレクションであるにもかかわらず,これまで紹介されることがなかった.マザリナード文書研究の現代における第一人者である,ユベール・キャリエにもその存在が知られていなかったほどだ.貴重なコレクションであるだけに,たいへん残念なことである.
このコレクションを取りあげることにより,「マザリナード文書」がじっさいにはどのような「もの」かを知ることができるが,同時に,今日,どのように保管されているかも見ることができる.それだけでなく,このコレクションが購入時にどのように紹介されたかを知ることにより,わたしたちは日本における「マザリナード文書」の理解,いいかえればこの分野における日本の研究の現状も知ることになろう.
そしてさらに,コレクションには必須の「目録」の問題を考察するきっかけにもなるだろう. 19世紀半ばに出版されたセレスタン・モローの『マザリナード文書総目録』(1850-1851,以下『目録』と略す)が研究史に占める位置を確認しつつ,今後のマザリナード研究に必要とされる「目録」の諸形態について考察する.この考察をもとに,東京大学コレクションの目録の改定を行ない,コーパスのための新たな目録として本論文に付するものである.と同時に,標準となっているモローの『目録』の分類番号との対照ができるように「コンコルダンス」を作成してそこに添付することになろう.
しかしながら,この第2部でもっとも重要なのは,東京大学コレクションの記述である.コレクションの由来に始まり,個々のコレクションの外見的特徴と内容を記述する.由来に関しては,今回が最初の調査となる.また,次に重要な問題として,このコレクションに含まれる「モローの『目録』に記載されていないマザリナード文書」iに関しては,すべて詳細に検討しなおすことにし,その結果を一覧として本論に添付する.
最後に,第1部の結論と第2部で観察によって得られた結果をもとに,《 mazarinade 》という語義の変遷過程を考察する.
第1章
東京大学総合図書館所蔵コレクション
I. 文書の存在と保管様態
三百年以上前に世に出たマザリナード文書は,今日どのように流通し保管されているのか? その多くは大学や図書館などに所蔵されているが,個人によって蒐集あるいは売買されているものもある.すでに〈フロンドの乱〉は遠く,言説としての社会的影響力は失われているが,現在もまだ流通し,あるいは保存されているというこの事実は,マザリナード文書が後世においてまた別の価値を獲得したことを示している.ひとつには歴史的文化遺産としての価値であり,もうひとつは古書とりわけ稀覯本としての商品的価値である.マザリナード文書はこれらの価値を担って,現代においてもまだ,古書店を介して流通している.そうしたコレクションはフランス本国のみならず,ベルギー,オランダ,ドイツなどの周辺諸国,さらにヴァチカン市国,旧ソヴィエト連邦,海を渡ってアメリカ合衆国,そして日本にも存在する.量を問わねば,大小さまざまな規模のコレクションが世界中に散っているのである.
1. 紹介文から
さて,そうしたコレクションのひとつに1978年,日本に購入され,現在東京大学本郷キャンパスの総合図書館に貴重書として所蔵されているマザリナード文書(貴重書A100-1652)がある.2,600点を超すといわれるこのコレクションは日本におけるもっとも大きなコレクションであることは疑いない.しかしながら,購入からまもなく30年になろうとするこの間,貴重書の保管庫の中に眠り続け,これを紹介する文章もまた,これまでのところ,購入時に東京大学付属図書館月報『図書館の窓』(1979年7月号)に掲載された,柴田三千雄文学部教授(当時)による文章をおいて他にはない.では,そこにはどのように紹介されているのだろうか.短い文でもあり,受け入れ当時の,そしてそれは現在までも変わらない日本におけるマザリナード文書の認識を知る手がかりにもなるので,著者の許しを得て,以下に全文を引用しておきたい.
■資料紹介
「マザリナード集成」
Collection des Mazarinades
柴田 三千雄
「昭和53年度外国図書として「マザリナード集成」が総合図書館によって購入された.
1648年より1653年にかけて,フランスはパリを中心に王国各地で「フロンドの乱」とよばれる政治的混乱におちいり,激しい文書合戦を伴なったが,「マザリナード」とは,この間に刊行された厖大な数に上る宣伝文書・論駁書・風刺詩などの総称である.その主な内容は,未成年の国王ルイ14世の下で政治の実権を掌握していたマザラン枢機卿を誹謗・批判する反マザラン文書であるが,これを反駁するマザラン擁護の文書や,叛乱に関する国務会議採決・高等法院記録の類も含まれており,その範囲についての明確な限定はない.パンフレットの多くは無署名の形で刊行されているが,スキャロン,ギィ・パタン,ギィ・ジョリーなどが反マザランの急先鋒として知られている.叛乱の渦中における世論の動向や出版界の状況,また絶対王権をめぐる政治思想上の対立を知るためには不可欠の基本史料である.
このフロンド期は,宗教戦争末期の旧教同盟時代やフランス革命期と並んで,文書合戦の激烈さにおいて出版史上特異な時期を形成している.そのため早くから文書集成の重要な対象期とされ,はじめて「マザリナード」の体系的研究に取り組んだセレスタン・モローは前世紀半ばに詳細な『マザリナード目録』Bibliographie des Mazarinades 全3巻(Paris, 1850-51)を編んだが,そこには4300点を超える文書が挙げられている.その他にもなお多くの文書が知られており,この分野で最も豊かな蔵書をもつパリのマザラン図書館には,12,500点以上の関係文書が収蔵されている.
これらの小冊子は,多くは10ページにも満たないパンフレットの類であり,混乱に乗じて国王の認可なしに勝手に刊行され街角で売り捌かれるのが通例であって,最初から叢書の形で刊行されたものではない.しかし,すでに同時代から蒐集家の注目を集めて,さまざまなコレクションがなされていた.今回総合図書館に収められた『マザリナード集成』は,由来を異にする五つコレクションからなり,収録文書の総数は2600点を超えている.
第1コレクション(革装四ツ折本9巻)は,ルイ14世がルーヴル宮より退去しパリがフロンド派の手中におちた,いわゆる「高等法院のフロンド」の絶頂である1649年の文書を中心とし,ほぼアルファベット順に整理されている.これに対し第2コレクション(革装四ツ折本20巻)は,いわゆる「貴族のフロンド」期に対応しており,1652年の刊行物に集中している.この時期を対象とするコレクションは比較的少ないので,全20巻という規模からも注目に値しよう.主要人物の肖像の版画を多数収録している点も特色である.第3コレクション(革装四ツ折本12巻)は,1649年より1652年にわたり,とくに49年の刊行物が多く,その点で第1コレクションと一部重複するが,両者あわせると49年段階のマザリナードの主なものが殆どそろったといえよう.第4コレクション(羊皮紙装四ツ折本2巻),第5コレクション(仮綴四ツ折本一式)は,規模は小さいが,高等法院記録を多く含む点に特色がある.以上の五つのコレクションをあわせて,モローの『目録』に記載されていない珍しいマザリナードが223点含まれている.これまでわが国で参照できたマザリナードが,『目録』の編者モローの刊行した『マザリナード選集』Choix de Mazarinades (Paris, 1853)全2巻に収録されている95点のテクストに留まっていたことを想えば,今回収蔵された『集成』が今後のフロンド研究,また17世紀フランスの社会史・文化史研究に裨益するところは大きい.(この紹介に際して,二宮宏之氏(東京外国語大学)の貴重な協力をえた.記して深謝する).」
(東京大学図書館月報『図書館の窓』1979年7月号 pp. 80-81)
さて,この記述は,マザリナード文書に関するいくつかの大きな特徴を述べている.中でも重要なのは,マザリナード文書というのは〈フロンドの乱〉の時期に刊行された「厖大な数に上る宣伝文書・論駁書・風刺詩などの総称である」とされ,反マザランの文書だけでなく,それを擁護するもの,あるいはまた国務会議裁決や高等法院記録までも含まれる点である.「その範囲についての明確な限定はない」という記述は,先に見た辞書による定義とは明らかに異なっている.つまり現実に「マザリナード」と呼ばれている文書は,辞書が規定する「反マザラン」という枠組みを踏み越えているというのである.この乖離はどこから,何によって生じているのか.もちろん,辞書に見るような一般的認識と,より実体に近いところにいる研究者の認識とのあいだにずれが生じるのは当然のことであろう.そして辞書はかならずしも現実を反映しないものである.それゆえに「マザリナード文書」がどのようなものかを知るには,やはり物理的な「もの」として存在する文書を観察するしかないのである.東京大学コレクションは少なくともそれがどのような「もの」として存在しているのか,一例としてその実体をわたしたちに示してくれるはずである.
この引用文からわたしたちが知りうることは,まず,このコレクションが「由来を異にする五つのコレクション」からなるということである.五つのコレクションの特徴を箇条書きにしてみると,次のようになる.
第1コレクション(革装四ツ折本9巻)
・1649年,「高等法院のフロンド」の文書を中心とする.
・アルファベット順に整理されている.
第2コレクション(革装四ツ折本20巻)
・1652年,「貴族のフロンド」の文書を中心とする.
・主要人物の肖像画を多数収録している.
第3コレクション(革装四ツ折本12巻)
・1649~1652年にわたり,特に1649年の文書が多い.
・第1コレクションと一部重複する.
第4コレクション(羊皮紙装四ツ折本2巻)
・高等法院記録を多く含む.
第5コレクション(仮綴四ツ折本一式)
・高等法院記録を多く含む.
さらにそこには「モローの『目録』に記載されていない珍らしいマザリナードが223点含まれている」ことが大きな特徴としてあげられている.
しかしながら,この紹介文からもたらされる情報はそこまでである.このコレクションの文書の総数は「2,600点を超える」とされているだけで,明確な数字は示されていない.また由来に関しても言及されていない.内容においては文書の年代しかわからない.だが,わたしたちにとって幸いなことに,このコレクションには「目録」がついている.目録は,コレクションのより詳細な記述であるから,これらの問いに答えてくれるにちがいない.次にこの目録によって,どのような状態でコレクションの内容が示されているかを見ることにしよう.だが,この「目録を見る」ということが,むずかしい.
2. 東京大学コレクションの目録
東京大学総合図書館のマザリナード文書は,貴重書として受け入れられたので,一般の図書とは区別される.このマザリナード文書の場合には,「コレクション」として蔵書目録カードに記載された「A100-1652」が,館内でこの文書を指し示すのに使われている番号だii.
そして,文書は,合本されているものが43巻と桐箱一個からなる.これらの全体がこの同じひとつの番号で扱われる.貴重書であるから,保管されているのは,一般書籍とは別の書庫になる.それゆえ閲覧するには,貴重書のカウンターで前日までに申し込み,専用の部屋で対面する.一回に閲覧できるのは, 図書館の規則で5冊までとなっている.
このコレクションの44巻には,たとえば全集本のような各巻の通し番号がない.すでに見た『図書館の窓』の紹介にもあるように,内部はまた5つのコレクションに分かれていて,それぞれにAからEまでのアルファベットが振られている.この下位コレクションがさらに9巻,20巻,12巻,2巻,そして装丁されていない文書の一箱で構成されているのである.つまり,マザリナード文書を閲覧する場合,上記の番号「A100-1652」を指し示したあとに,何番目のコレクションの,何巻目を閲覧したい,といって請求することになる.ここまでで,すでにお気づきだろうが,それにはどの巻に,お目当てのマザリナード文書が入っているのか,あらかじめ知っていなければならない.そこで重要になってくるのが,このコレクションの「目録」なのである.
ところが,この「目録」は図書館に蔵書としては記録されていない.先ほど参照した,コレクションが書庫に入ったときの図書受け入れ票にも載っていないものなのである.つまり,この目録は公式には「存在しない」のだ.この目録を見るためには,「マザリナード文書のコレクション」を閲覧したいと,まず貴重書のカウンターに問い合わせることになる.その先は,図書館員の記憶だけが頼りであるiii.
さて,こうしてようやくたどりつく目録の形態は,全1巻である.大きさはほぼA4版で,表と裏を黒い厚紙で挟み,紐で綴じられている.ページ番号はなく,また日付も作成者の氏名も記載されていない.この目録はしたがって,いつ,誰が,どこで,どのように作成したのか,いっさい不明である.総合図書館の話によれば,少なくとも蔵書として受け入れられた後に図書館が作成したのでないことだけは明らかだという.
では,この目録の形態について,より具体的に記述してみよう.まず黒い厚紙の表紙に張られた紙に,印刷された文字で英文タイトルが記されている
MAZARINADES
A Comprehensive Collection of Year 1647-1652
About 2,800 French Political Pamphlets
この表題は以下のふたつの点に注意を喚起する.ひとつはそこに示された年代である.「1647-1652」というのは〈フロンドの乱〉(1648-1653)の年代と前に一年ほどずれている.「1652年」というのは,1652年までの文書が含まれているということを示すとしても,「1647年」というのは,少なくとも歴史家の共通認識では,〈フロンドの乱〉はまだ始まっていない.したがって,この目録タイトルからすれば,このコレクションには〈フロンドの乱〉よりも前に刊行された文書も含まれていることになる.
つぎに「2,800」という数字である.この数字は先に見た『図書館の窓』の紹介「2,600を超える」という表現とは「超える」という意味で確かに矛盾してはいないものの,そのひらきは200近くになる.200といえば,それだけで小さなコレクションがひとつできる数に相当する.表紙につけられたこのタイトルはコレクションの内容のみならず,「いったい,本当はいくつの文書が含まれるのだろうか」という素朴な疑問をいだかせるのだ.
このタイトルの下にはマザランの肖像画が入り,その下にタイピングによって5つのコレクションからなることが示され,それぞれの巻数が表示されている.こうしたところは写真が示せれば一番いいのだが,残念ながらそれがないため,記述で再現してみたい.
MAZARINADES COLLECTION:
Collection A: 9 vols
Collection B: 20 vols
Collection C: 12 vols
Collection D: 2 vols
Collection E: 1 vols
さらにその下に日本語の手書きで「*印のパンフレットはモローの『目録』に記載されていないものです」とある.
すでに述べたように,この目録には日付も作成者名も入っていない.しかしながらタイトルに見られる「2,800」という数字,5つのコレクションからなることの明示から,五つのコレクションがひとつにまとめられたのちに作成されたものであるiv.しかし外観からそれ以上のことは導き出せない.
さて,今度はその内部だが,表紙がコピーされて貼られていて,続いてすぐに収録文書のタイトルが記述されている.凡例はない.そこにはコレクションの由来に関する言及も,また文書の総数に関する記述もない.由来はともかく,総数を知るには,そこに掲載されている文書のタイトルをひとつひとつ数えあげるしか方法がないのである.
では,収録文書のタイトルがどのように示されているかというと,凡例はないが,統一はされている.モローの『目録 』の該当箇所(モローの目録では,整理番号に続いてタイトルが記されている)をコピーして貼り,その左側に,このコレクション内部における整理番号が( )に入れてタイプで打たれている.既述のように,このコレクションでは第1-第5コレクションをA-Eとしているので,この整理番号は,最初にコレクションの記号(アルファベット),次に巻の番号(数字),そしてその巻のなかで何番目の文書にあたるかという順序(数字)で構成されている.たとえば第1コレクションの第1巻にある一番初めの文書の整理番号はA-1-1となるわけである.しかし「モローの『目録』に記載されていない」とされる文書に関しては,当該個所はないのであるから,タイピングによりタイトルを写して,整理番号の左肩に*がつけられている.普通紙にコピーしてあることから推して,この目録が作成されたのはそれほど遠い昔ではないようだ.
さて,このようにして表示された整理番号から単純に合計すると,コレクション全体の総文書数は2,669点になる.なるほど,それは確かに紹介記事にあるとおり「2,600点を超えている」が,目録タイトルの約2,800点とはかなりの開きがある.目録に記載もれがあるのだろうか? それにしては,数字のひらきがあまりにも大きすぎる.約130点の記載もれなど,ありえるのだろうか.じっさいは,その逆ではないかとも考えられる.この目録が「最初に」作成されたときには2,800点あったものが,どこかで約130点抜け落ちてしまったということはないだろうか.いったいどちらが,正しいのだろう.
東京大学コレクションの目録は,このように,目録としてはいささか心もとない状態にある.このコレクションをコーパスとして使用するには,少なくとも,その前に,実物と目録を対照して,全体を正確に把握できるようにする必要があると考えられるのだ.
第2章
マザリナード文書と研究者をつなぐ目録の重要性
I. コレクションと目録の関係
1. 相互補完関係
どのような「もの」のコレクション──美術品であろうが,書画骨董であろうが,あるいは鉱物や生物の学術標本であろうが,その目録は実体である「もの」に代わって,少なくともそこに集められたすべての「もの」を記述していることが前提となる.いいかえれば実体が文字情報に置き換えられたものが目録である.その際に,記載もれは──もちろんあってはならないことなのだが──どのような目録でも起こりうることである.対象となる個体の数が増えれば増えるほど,その可能性は増す.しかし,記載もれがあったとしてもそれは最小限の誤差の範囲におさまっていなければならない.そうでなければ,その目録は本来の機能を果たすことができないからである.
コレクションとその目録は基本的に相互補完的関係にある.ひとことでいえば,コレクションとは「もの」であり,目録はそれについての「情報」である.だが,ある特定の条件下に集められたコレクションも,目録という文字情報──補足的に図版をともなう場合もあるが──に置き換えられなければ,その全体を一度に把握することは不可能である.またそのコレクションに含まれる「もの」を個別的に識別・抽出しようとすれば,つねに実物への参照を強いられることになる.目録がなければ,コレクションとは単に一定の条件下にある「もの」の集合にすぎないのである.他方,目録はそもそもその集合がなければ存在する理由がない.その集合を総体的,かつ個別的に把握しうる文字情報に移し換えてこそ──もちろんその方法は対象となる「もの」の形態によって異なるのだが,はじめてそれはコレクションの目録として機能する.そして今度は,その目録を通じて,わたしたちは直接その実物に接することなくそこに集められた「もの」を全体的かつ個別的に把握することができるようになるのである.つまり目録とは,実体としてのコレクションに対しそのインターフェイスとしての役割を担うものである.それによって,わたしたちはそのコレクションに接近し,観察し,分析あるいは操作することが可能になるのだ.目録ができて初めて,コレクションは独立する.
2.各コレクションのインターフェイスとして機能するための形態
マザリナード文書のように,ときに数千点にのぼるコレクション──集合──の中からある特定の文書を探し出そうとするとき,このようなインターフェイスとなるべき目録もなしに,いったいどうすれば目的の文書にたどりつけるだろうか? 不可能ではないにしても,それはおそろしく時間がかかるにちがいないv.またその集合全体を見渡し,観察することも同様に,不可能ではないにせよ容易ならざる作業となる.目録もなしにそのコレクションを資料体にすることは,海図なしで航海に乗り出すのとおなじ危険を覚悟しなければならない.無限のテクストの海にのまれ,研究者は今自分の立っている位置はおろか,たどりつくべき岸さえも見失う恐れがあるからだ.このようにとりわけ対象となる文書が厖大な数になる場合,そうした危険を回避するために,正確な海図──目録──は必要不可欠なのである.いいかえれば正確な海図さえあれば,たとえ初めてその海に漕ぎ出すものも目的地までの最短かつ安全な航路を選択できるということである.
では具体的に,この海図──目録──において必要とされる情報は何か.それはまずどこに,何があるかということである.たとえば装丁された複数の巻からなるコレクションなら,どの巻の何番目にあるかということが位置を示す座標軸になり,個々の文書のタイトルはそこに何があるかを示す.先に一般論として触れたように,コレクションの内容を文字情報に移し換える場合,その方法は対象となる「もの」の形態によって異なるが,マザリナードの場合,その形態はそれぞれが独立した「文書」であるから,それがどのような「もの」であるかを示すには,タイトルに続いて,誰によって書かれ,いつ,どこで,印刷されたのか,そして何ページにおよぶのかという情報も記述されるべきだろう.つまり形態としては図書館の「蔵書目録の形式」がもっともふさわしいのである.さらに,もしある文書が形態的にきわだった特異性を備えているような場合──たとえば活字のかたちが著しく異なっていたり,特殊な装飾がほどこされていたり,ページ番号に乱れがあるような場合には,簡潔にその特徴を書き添えておくことも無駄にはなるまい.なぜなら,それらの特徴は他のコレクションに類似の文書が見いだされたときに,同定する手がかりとなりうるからである.
3. 各コレクションの枠を越える上位の集合としての「マザリナード文書総合目録」の必要性
ところで,マザリナード文書に関しては,さらに個々のコレクションの枠を越えて,現存するすべての文書を網羅したより上位の集合を想定する必要がある.「標準的総合目録」となるような集合だ.なぜならマザリナード文書は世界各地に分散しているからである.各々のコレクションを地理的に限定された海域とするなら,今日まで伝わるマザリナード文書をあまねく内包するこの集合は世界を覆う海に相当する.しかしながらその全体像は単純な各海域の総和からは求められない.限定された海域──すなわち各コレクション──でのように,そこに存在する文書をことごとく記述するという方法では,いたずらに情報量を増大させるだけだからである.問題はたえず波のように押し寄せてくる文書の重複なのだ.各コレクションの単純な総和としてでなく,現存するマザリナード文書の全体像としてこの上位の集合を記述しようとするならば,この重複の排除は必須であり,それが「標準的総合目録」を作成する最初の作業となるだろう.
この準備段階を経て初めてその記述に移れるのだが,次の問題はそれらの文書をどのような順序で配置するかということである.マザリナード文書は〈フロンドの乱〉という歴史的出来事の推移と密接な関連をもつ.そこでひとつには文書を時間軸にそって配置するという方法が考えられる.あるいは全タイトルを辞書の見出し語のようにアルファベット順に並べることも可能だ.さらにまた人物やテーマごとに分類することもできる.順序に関しては,少なくともこうして3つの選択肢が想定される.だが,そのいずれにも長所と短所がある.
まず時系列的配列は,なるほど確かに出来事の推移と文書の関連を明確に示すことができるが,特定の文書を探し出すには不向きである.反対にアルファベット順配列は文書の検索にはもっとも適しているが,それぞれの文書の時系列的関連はまったく無視される.人物やテーマごとの分類は,特定の人物や事項との関連性を浮き彫りにし,テマティックな検索には有効だが,ひとつの文書が複数の人物や事項に関わっている場合は,重複を許容しない限り,かならずどこかに偏りが生じることになる.
このようにして考えると,おそらくもっとも妥当といえる解決策は,タイトルをアルファベット順配列にし,関連する文書──たとえば反駁やつづき──があればそれらに参照を送る注記をつけ,別途,それとは独立させて,時系列にそったタイトルの一覧表,そして関連事項・人物による索引のふたつを添付することだろう.なぜならその記述がマザリナード文書の全体像を提示するのみならず,同時にマザリナード文書全体に対するインターフェイスとして,有効に機能するためには,まず何よりも検索の利便性を優先しなければならない.それにはやはりアルファベット順配列がもっとも適している.添付される一覧表と索引がこの配列のもつ欠点を十分に補うであろう.
このようにして記述されたマザリナード文書の集合は,現存するすべての文書のタイトルを包括することになる.ただし,このような集合自体は現実の「もの」としては──つまり各コレクションのようには──存在しない.その意味では架空のコレクションである.だが,それはきわめて重要な役割を担うことになろう.先に喩えたように,個々のコレクションを限定された海域とするなら,この虚構の集合はひとつの文書を手にした研究者に全体における位置と方角を指し示すことになるからである.すなわちこの目録は天空の星座表と同じ役割を担うことになるのだ.
II. モローの『マザリナード文書総目録』 Bibliographie des Mazarinades
1. 現在の「標準的総合カタログ」
さて,マザリナード文書をそうしたかたちで全体的に俯瞰しようという計画は,これまでに一度だけ,19世紀半ばに実現した.それがセレスタン・モローの『マザリナード文書総目録』である.1850年から翌年にかけて,パリにあるフランス歴史協会 la Sociéte de l’Histoire de France から出版された,全3巻の目録は4084タイトルのマザリナード文書(巻末の追加230タイトルを入れると4,314点)を収録している.その後の増補分を加えると,モローの『目録』に掲載されている文書は全部で4,607点となる.東京大学総合図書館の目録が準拠しているのも,この目録だvi.
この『目録』は各タイトルがアルファベット順に配列され,Bibliographie(書誌)という題名が示すように,文献表の形式が用られている.つまり,タイトル以下,出版地,出版者,出版年,ページ数の順に記載されている.さらに補足説明が加わる場合もある.(図版参照次のページ)
さらに第3巻目の末尾に「印刷業者一覧──Liste alphabétique des imprimeurs et libraires」,「時系列配列のタイトル一覧──Liste chronologique des Mazarinades」および「固有名詞・匿名索引──Table des noms propres et des anonymes 」,そして「訂正・追加──Additions et corrections」が加えられている.この巻末の訂正と追加部分に収録されている文書は230タイトルあり,それらは第1の増補──Premier Supplément と呼ばれているvii.第一の増補を含むこの3巻が,全種類のマザリナード文書を示そうとした最初の記述である.こうしてできた「モローの目録」は,今日にいたるまで,唯一の標準となる「マザリナード文書の総合目録」として不動の地位を保っている.この目録で,モローが収録した文書につけた整理番号は,「モローの○○番」というように,世界共通の「分類番号」にもなっている.たとえば,スカロンの『ラ・マザリナード』にはこの『目録』で[2436]という番号がついている.マザリナード文書の場合には,タイトルがおそろしく長い場合も多いので,モローの番号だけで引用が示される場合も少なくない.
じっさい,モローの『目録』以後に作成された大きなコレクションのカタログで,モローのこの仕事を参照していないものはおそらくないだろう.たとえば,次に紹介する世界でもっとも多くのマザリナード文書を所蔵するパリ・マザリーヌ図書館 La Bibliothèque Mazarineのカタログにしてもそうである.
2. モローを元にしたマザリーヌ図書館のカタログの例
マザリーヌ図書館の膨大なコレクションのカタログは19世紀末から20世紀初頭にかけて作成されたviii.つまりモロー以後に作成されたものである.
カタログ本体はモローの『目録』に白紙を挟み込み,そこへ書き込めるようにつくられている.マザリーヌ図書館の場合,この『目録』にすでに記載されている文書は,その分類番号の脇に同図書館における番号が記されている.記載のない場合にはアルファベット順に,タイトルおよび文献情報と同図書館の番号(大文字のMで始まる5桁の番号)が書き込まれている.モローにあるにせよ,ないにせよ,文献情報としてページ数や出版地のほかに特徴となるものが書かれているので,同一タイトルの文書が複数あった場合には,版の異同が確認できる.このカタログはコピーをとることが許可されていないので,スカロンの『ラ・マザリナード』を例にとって,それがどんな状態なのか以下に再現してみよう.
モローの『目録』では,スカロンの『ラ・マザリナード』 [2436] は次のように記載されている
2436.Mazarinade (la). Sur la copie imprimée à
Bruxelles, 1651, 24 pages.
ここでは省略するが,続いてこのあとに3ページにおよぶ解説がある.マザリーヌ図書館のカタログでは,モローの記述の横に次のような記述が加わる.書かれているとおりにに引き写してみた.
Diverses éditions
1° Une édition de 14 pages mal chiffrées M10210
2° Une édition de 7 pages à deux colonnes M10211
3° Une autre éd. de 14 pages mal chiffrées M14805
Je n’ai pas trouvé l’éd. de 24 p.
4° Une édition ( S. l. n. d. ) de 15 p., petit in 8°. M14878
5° Une éd. S. L. n. d. [sic] à 2 col. de 4 pages M14980
sous le titre La Veritable Mazarinade non altérée ( voir ! )
6° Autre M15406
こうした記述によって,わたしたちは,たとえば東京大学所蔵コレクションにある3つの『ラ・マザリナード』 (B-13-62, 14 pages;C-11-7, 14 pages;D-1-38, 12 pages)が,モローの記述とまったく一致しなくても,ほかに比較できる文書が得られる.東京大学のコレクションはいずれもページ数において,モローの記述と異なるが,マザリーヌ図書館には少なくともB-13-62やC-11-7と同じ14ページの版があり,そのうちのC-11-7は,じっさいに比べてみると,ページ番号の乱れなどが一致して,マザリーヌ図書館のM14805と同じ版であることが確認できるのだ.
マザリーヌ図書館のカタログ製作は,司書であったアルマン・ダルトワArmand d’Artoisによって,すべて彼自身の手作業で行なわれたix.現在,閲覧できるのはその手書きカタログをコピーしたものだ.全体は5巻に分冊されている.つまりモローの記述とは異なる版や,モローの『目録』に記載されてない文書などが書き入れられていった結果,情報量が大幅に増えたのだ.
しかし,ここで,ダルトワとモローの決定的な相違をおげておくと,モローは場合によって,たとえば『ラ・マザリナード』の例に見られるように,きわめて長い背景の説明や批評を加えているのに対し,ダルトワは,いっさい文書の内容には立ち入らず,ひたすらマザリーヌ図書館にある文書がモローの記述と一致するかしないか,一致しない場合は,どのような外見的特長をもっているかを記録することに専念した点である.前者が批評家であるなら,後者は愚直な写字生といえようか.しかし,このダルトワのおかげで,マザリーヌ図書館のカタログは,まさに「網羅的」なのであり,記載されている文書の点数──種類ではなくて量──において,同図書館を上回るものはない.重要な,そして基本的な比較対象のコーパスとなりえるのだx.しかしながら,その分類と記述を支えているのは,やはりモローの『目録』なのである.
マザリーヌ図書館に比べれば,所蔵する文書の量ははるかに少ないが,より最近のカタログの例としては,1976年にアメリカで出版されたハーヴァード大学ホートン・ライブラリー所蔵マザリナード・コレクション(3092点)の目録Mazarinades : A Catalogue of Collection of XVII th Century French Civil War Tracts in the Houghton Libraryがある.これはアルファベット順の蔵書目録カードを,ページの一面に並べたものだ.著者,タイトルなど一般の文献情報が載っている目録カードに,モローの分類番号が付け加えられているxi.批評や解説はない.
このように19世紀半ばにモローによって作成された『目録』は,その後の目録のあり方を決定づけた.それは最初の基準となり,今日にいたるまでモローのつけた分類番号は「世界共通のコード」として機能している.しかしながら,だからといって,モローの『目録』が完璧というわけではないのである.
III. モローの『マザリナード文書総目録』の問題点
1. すべての文書を記載しているわけではない.また厳密なアルファベット順でもない.(解決可能な問題点)
まずモローの『目録』は,マザリナード文書の全種類を記述しているかといえば,決してそうとはいえない.じっさい,マザリーヌ図書館のカタログにせよ,ハーヴァード大学コレクションにせよ,モローの『目録』にはない数多くの文書が記述されている.網羅的という意味では12,500点を超えるといわれるマザリーヌ図書館のカタログの方がはるかに網羅的なのである.またモロー自身が第2,第3の増補を出しているだけでなく,出版直後から,別の研究者たち──フィリップ・ファン・デル・ハーゲン Philippe Van der Haeghen (1859年)xii,エミール・ソカール Emile Socard (1876年)xiii,エルネスト・ラバディ Ernest Labadie (1904年)らxiv──によって,訂正および増補が行われているxv.そこにすべてが記述されていたのなら,これらの増補が出現する余地はなかったはずである.この点においてモローの『目録』は現在までのところ唯一の,しかしながら暫定的な「総合目録」と考えるべきであろう.
それだけではない.記述の方法においてもまた,モローには問題がないわけではない.タイトルはアルファベット配列になっているとはいえ,それは辞書のように完全なアルファベット順ではない.たとえば,タイトルのひじょうに似通っている高等法院の「裁決 arrêt 」や国王などによる「親書 lettre 」は,時間経過にそってまとめられている.こうした下位区分があることは特定の文書を探し出そうとして初めてわかることで,検索の利便性にはあまり有効とはいえない.さらにタイトルの写し違いや,ページ数などの間違いも見いだされる.モローの『目録』はその記述においてもやはり完璧とはいえないのである.
だが,これらの記述に関する問題点は,この目録の支持体を紙からコンピュータに変更することで解決しうるものだ.コンピュータは語句による検索を可能にするので,不完全なアルファベット順配列であっても差し支えない.すでに世界的コードとして定着しているモローの分類番号を変更して,無用な混乱を招くこともないのである.またタイトルなどの誤記は全体の電子テクスト化に際して検証し,訂正することができる.増補に関しても,番号を加えるだけでよい.モローの『目録』の電子テクスト化は検索の利便性を強化するだけでなく,より網羅性を高めることにもつながるのである.つまりコンピュータという新しい技術によって,モローの記述をさらに充実した形にもっていくことは可能なのだ.だが,それでも解決されない問題が残るのである.
2. 資料体の曖昧な対象化(解決不能の問題点)
19世紀にはなかった新しい技術を導入し,記述の不備を補ってもなお解決されない問題とは何か.それは目録作成者としてのモローがどのようにマザリナード文書を対象化したかに由来する.それはマザリナード文書を資料体とするときに,すべての研究者に求められる「観察者」としての態度決定に関わり,それゆえにわたしたちにとっても共有される重要な問題である.モローはマザリナード文書全体をどのように見ていたのだろうか.
『目録』に付された序論の冒頭で,モローはそれまでの個別的な目録のあり方を批判し,マザリナード文書に対する「総体的研究の必要性」を説いているxvi.そしてマザリナード文書の概要を紹介したのち,モローはかくも厖大なこれらの文書の研究には,従来の時系列的分類ではなくアルファベット順配列の目録が必要なのだと説く.そうすることによって,ひとつには研究者の仕事がより容易になり,〈フロンドの乱〉の内外を取り巻くさまざまな意見を正確に知らしめることになると,モローは考えるのだxvii.そうすることのふたつ目の利点は,研究者やコレクターのみならず一般の人々も視野に入れてのことである.つまりモローがこの『目録』を作成した目的は,配列を変えることによって文書検索を容易にし,より開かれたかたちで,また接近しやすいコーパスとして,マザリナード文書を一般および研究者に提供することにあった.もちろんモローがこの『目録』を出版した当時のフランスにおける政治情勢──王政復古(1815年),七月革命(1830年)を経て,二月革命により(1848年)第二共和制が成立していた──を考えれば,そこにさらにべつの意図を読みとることもできるだろう.しかし,それでもやはり,マザリナード研究に限っていえば,少なくともコレクションの枠を越えて文書をひとつの総体としてとらえようという提案──すなわちコーパスの再編──は,じつに革新的な出来事であったといわねばならない.こうした企図にもとづく『目録』の出現によって,マザリナード文書を取り巻く環境は大きく変化し,研究は明らかにひとつの新しい局面を迎えることになったはずだ.モローの業績は研究史にひとつの時代を画するものであった.その意味でどれだけ評価してもしすぎることはないのである.だが,問題はモローが再編しようとしたコーパスと,彼がそれをどのように対象化したかということである.いくつかの疑問点とともにその問題について考察してみよう.この考察は,次にわたしたちが「標準的総合目録」の条件を考える上でも重要である.
2-1. 調査の対象となったコレクションの不明と非網羅性
まず,モローは『目録』の序文で,きわめて大まかではあるがマザリナード文書の概観を示している.具体的に文書の例をあげ,それがどのようなものか,またこれらの文書を取り巻く出版,印刷,流通,検閲などの周辺事情にも言及しているxviii.しかしながら,モローはこの『目録』を作成するにあたって,どこにある,何というコレクションを対象としたのか明示していない.モローはどのように調査を行なったのだろうか? この『目録』の出版からほどなく,ソカール,ラバディらによってトロワ,ボルドーなど地方から多くの文書が発見されている.そのことは,フランス国内の地方における調査があまり十分には行なわれていなかったことを示す.19世紀という時代を考えればやむをえないことではあるが,当然国外のコレクションを網羅するにはいたらなかったろう.おそらくモローはパリ周辺のコレクションを中心に調査をすすめたのだろうと考えられる.つまり総体としてのマザリナードを追いながら,モローが見た,あるいは見ようとしたものには限界があったことを認めなければならない.またモローが意図的にパリに重点をおいたのであれば,そこには〈フロンドの乱〉に対するモローの認識があらわれている.モローにとってこの内乱は首都を中心に,そこで起きた出来事こそが重要であると考えられていたということである.じっさい,『目録』の後に出版された,モローによる選集『マザリナード選集 』Choix de Mazarinades(1853年,以下『選集』と略す)xixは95の文書からなるが,それらの大半は1649年の出版物に集中している.この年はパリがコンデ軍によって封鎖された年であり,〈フロンドの乱〉の舞台の中心はまさしく首都であった.
いずれにせよ,モローの調査には限界があった.だが,その点についてわたしたちはモローを非難することはできない.交通機関が発達した現代においてさえ,地方や外国のコレクションを調査することは容易ではないのだ.大切なのは,わたしたちがこの『目録』を参照するときに,それがすべての文書を網羅しているわけではないことを忘れないことである.
2-2.選択基準の恣意的な受動性
おそらくモロー自身も,完璧にすべてを記述できるなどとは思っていなかったにちがいない.ここで重要なのは,それでもやはりマザリナード文書の総目録作成を考えたモローは,ひとりの観察者として「全体」を見渡す位置に立っているということだ.その位置から最初に見渡されるコーパスは文字通り無限の広がりである.問題はそこから4,607タイトルのマザリナード文書に到達するその過程なのである.いいかえるなら観察者モローが対象を定め,それに接近することによって,対象自体が変化してしまうことなのである.
まず未整理の段階で,調査の対象になった資料はより具体的にどのようなものとしてモローの前にあらわれたのだろう.モローがどのようなコレクションを参照したにせよ,それらはまず,「マザリナード」という名のもとに集められてきた文書,あるいはそう称されている個別の文書であることはまちがいない.そのなかには実物が存在せず,回想録など他の文献資料によって言及されている文書も含まれる.じっさい,『目録』にはそうした文書のタイトルも含まれ,星印によって区別されている.そうした資料を前にして最初にしなければならない作業には,どのようなことが想定されるだろうか.第一段階としてすべきことは,それらの中から重複する文書を排除することだろう.そうして残ったタイトルがひとつの集合をつくる.ここまではモローでなくとも,立場を同じくすれば同様の作業手順となるにちがいない.
次に第二段階として,それらの記述に入るわけだが,その前にひとつの態度決定を迫られることになろう.つまり,そうして残ったものを全部マザリナード文書として受け入れるかどうかである.無選別にすべてを記述する場合,観察者はいわば現実に寄り添うかたちで忠実にそれを引き写すことになろう.こうして指し示されるのは,「事実上マザリナード文書と称されているもの」の集合ということになる.だが,観察者にはもうひとつの選択もある.観察者の設定する「マザリナード文書としての条件」に合致するものだけを選別することも可能なのだ.それにはあらかじめ条件を用意しておかなければならないし,それは明確に提示される必要がある.コーパスに対して前者は受動的,後者は能動的な働きかけとなるわけだが,いずれにせよこの段階で観察者は「何をもってマザリナード文書とするのか」ということを決定しなければならないのである.モローはどちらを選んだのだろうか?.
『目録』の序文をみる限り,モローはコーパスに対してどのような接近をしたか明示していない.「何をもってマザリナード文書とするのか」という問いが立てられた様子はない.たとえば年代を見ると,収録されている文書には1648年から1653年という内乱の期間を越えるものが含まれている.年代的には1648年から1660年にかけて印刷された文書ということになる.1654年以降1660年までの文書のうちもっとも多いのはレ枢機卿に関するものだ.確かにレ枢機卿は〈フロンドの乱〉で影響力をもった人物のひとりであり,内乱の後に逮捕されている.彼の失脚は〈フロンドの乱〉の結果といってよい.しかしながら,主要人物や出来事に関連することなら,内乱が終結した後にも同様に出版されているものがあったにちがいない.だが,それらのどこまでをマザリナード文書として扱うかという点について,モローは言及していないのである.モローがコーパスに対してとった態度は曖昧である.受動的であったのか,能動的であったのか? 何らかの条件にしたがって文書を選別したのか,しなかったのか? そもそも何をもって4,607のタイトルをマザリナードとしたのか?
序論のなかで,唯一,コーパス全体に対するモローの見解として見いだされるのは,『目録』の企図を説明するにあたって用いられている表現「〈フロンドの乱〉の内外を取り巻くさまざまな意見les opinions qui avaient cours dans la Fronde et hors de la Fronde」である.モローはそれを「世論opinion publique」ともいいかえているのだが,『目録』に続いて出版された『選集』の序文では,この「世論」という言葉を使って,より説明的に見解が示されている.マザリナード文書は〈フロンドの乱〉の歴史的再考証には欠かせないコーパスとして位置づけられたうえで,これらの文書は同時代人の回想録からは得られない「世論」を反映すると強調されているのであるxx.そして『選集』においては,1649年の文書を中心に,中心となった人々や党派に関わるものを優先し,裁決や王令,宣言など公文書に相当するものはあえて取りあげなかったとしているxxi.
『目録』と『選集』の序文を対比させると,次のようにいえるのではないか.つまり,『目録』においては,より一般的に,〈フロンドの乱〉に関連する「さまざまな意見」を幅広く収録することが優先された.1660年までのレ枢機卿に関わる文書の収録にみるように,〈フロンドの乱〉との何らかの関連性──それには内容に限らず,著者や印刷時期や,どのような小さな関連も含まれる──が見いだされる文書はことごとく収録の対象になりえたxxii. 「フロンドの乱の内外dans la Fronde et hors de la Fronde」とモローがいうときの 「外 hors」は,共時的に「内乱の外にあるもの」だけでなく,その前後,つまり通時的に「内乱の前後」まで含まれている.そう考えれば,〈フロンドの乱〉の主要人物のひとりであったレ枢機卿に関して,その後に出版されたものまで『目録』に含まれている理由も納得できるのである.一方『選集』においては,逆にそのなかから当時の「世論」を代表するような意見が選択的に収録された.つまり,モローのコーパスに対する態度は『目録』においては受動的選択であるが,『選集』においては能動的選択の傾向を示す.しかしながら,そのようにして作成された『目録』であっても,モローが何らかの取捨選択を行った可能性は否定できない.むしろ少なからずあったと考える方が現実的である.ただ,その選択基準は示されていないのだ.よってわたしたちはそれについては知り得ない.4,607タイトルはおよそこのような経緯によって残された文書である.
モローの『目録』に関する以上の考察から発見した問題点を整理し,より完成した形でマザリナード文書の総体を示す目録に求められる基本的条件を次にまとめてみよう.
IV. マザリナード文書の総体を目録化するときのふたつの基本的条件
1. 調査対象としたコレクションの明示
ひとつにはマザリナード文書の総体を知るためには,地方やフランス国外のすべてのコレクションを対象にする必要があるということだ.しかし「すべて」は常に近似値なので,対象としたコレクションの名称と所在を明記することが必要となろう.少なくともそれによって,調査対象となったコレクションとそうでないコレクションがはっきりと区別できる.ところで,個々のコレクションの調査には,まずそれぞれが所蔵する文書を正確に把握しなければならない.前段階として個別の目録の整備が必要である.
こうして集められる文書の総和は,しかしながら「事実上」マザリナードとして扱われている文書の集合である.そこには〈フロンドの乱〉と直接関わりのない文書も含まれるだろう.次の段階でわたしたちはもっとも重要な問題に直面する.何をもって「マザリナード文書」とするのか,選別が必要であるということだ.
2. 総和か選別か,選択条件の明示
「事実上のマザリナード文書」の総和を選ぶのか,それともある一定の条件を満たしたものを選別してそう呼ぶのか.大切なのは前者を選ぶにせよ,後者を選ぶにせよ,それがコーパスの性質を決定づけることである.モローの『目録』の一番の問題点もそこにあった.観察者の存在が不可避的に対象を変化させてしまうのである.ここで目録作成者はどちらかを選択し,同時にどちらを選択したかを明示しなければならない.
ところで,このふたつの選択肢には,じつはそのどちらにも利点がある.「事実上のマザリナード文書の総和」は,歴史的にどのような文書がマザリナードとして扱われてきたかを示すことになり,受容史的な価値をもつ.それゆえむしろ個別のコレクションの場合には,この方法が適しているだろう.なぜなら,コレクション自体がひとつの受容形態であるからだ.そしてまたコレクションの目録の場合は,現実にそこにある文書との対照性が求められるから,すべてが記録されていることが望ましい.
一方,一定の条件のもとに選別するには,あらかじめ「何をもってマザリナード文書とするか」という問いを立て,その明瞭な答えを準備しておかなければならない.〈フロンドの乱〉とマザリナード文書の関係性について事前に周到な考証がなされていることが前提となる.モローは「さまざまな意見」「世論」という表現でその関係性をあらわそうとした.だが,それだけでは曖昧であり,不十分である.それぞれの文書に関して内容的に踏み込んだ調査が必要であり,年代,表現形態,その他文献学的情報に加えて個々の文書の〈フロンドの乱〉との関連性が示されなければならないだろう.
V. 現在進行中の「総合目録」
1. ユベール・キャリエによる「総合目録」
残念ながら,現時点では「事実上のマザリナード文書の総和」といえる目録も,〈フロンドの乱〉との関係において全マザリナード文書を再編した目録も,まだ存在しない.前者により近いのは,パリ・マザリーヌ図書館の12,500点を収録したカタログであろう.モローの『目録』を位置づけるなら両者の中間ということになる.だが,後者に相当するものが現在,ユベール・キャリエに率いられたトゥール大学のルネサンス高等研究所 le Centre d’Études supérieures de la Renaissance de Toursの研究グループによって準備されている.予定では2000年に完成するはずであったが,作業には厖大な時間を要するもので,まだ出版されていない.だが,それは出版されればモローに代わる「スタンダード」となるのは確実であるから,ここに概要を記しておく.
この目録が作成される契機となったのは,ユベール・キャリエの国家博士論文『〈フロンドの乱〉(1648-1653)の出版物:マザリナード文書』であるxxiii.キャリエのこの著作は〈フロンドの乱〉とマザリナード文書との関係性を,主要人物,党派,出来事について考証しながら,同時に当時の出版事情,流通経路,著者,購買者など,多様な視点を導入しつつ,マザリナード文書と「世論」の形成をひとつの歴史的出来事として記述したものである.
第1巻『世論の征服』の序論において,コーパスとしてのマザリナード文書の現状が詳細に検討され,総合目録として現在なお「スタンダード」の権威を有すモローの『目録』にも批判的検証が行なわれている.そこでは可能な限り網羅的総合目録を作成しようとしたモローの意図を高く評価しながらも,文書の政治的,文学的価値評価や反響などの分析について,〈フロンドの乱〉の出来事,党派,主要人物との関連性における位置づけが不十分であるとの指摘がなされる.総体としてのマザリナード文書を体系化することで,17世紀の思想,現実,社会・精神構造,政治・経済・宗教などの問題をわたしたちに提示するにはいたっていない.それゆえに総合的なマザリナード研究が必要なのである,とキャリエはいうのだxxiv.このようにモローに対する批判が,キャリエのマザリナード研究の動機のひとつとなっている.
そして具体的にモローの『目録』の欠点として,わたしたちがすでに見てきたような網羅性の欠如,記述の誤り(タイトルの写しちがい,ページ数,出版年月日,印刷地の間違い)の他に,モローに見られる19世紀特有の歴史観,事項索引の欠如──キャリエはこれがもっとも残念な不備であり,専門家以外の接近を阻んでいるとする──を指摘し,それらを訂正,補って,これまでのすべての研究の成果を集成した新しい「全マザリナード文書の歴史的・批評的目録Bibliographie historique et critique des Mazarinades 」の出版を予告する.キャリエの研究は,そもそもがレ枢機卿の回想録を研究するために,マザリナード文書を参照したことに端を発している.それが結果的に全種類のマザリナード文書を参照することになり,総合的な分析に発展していったものだ.彼の国家博士論文と予告された新しい目録は,いわば双子のような関係にあるxxv.
この著作で予告されている新しい目録について,わたしは97年3月,その準備段階にあるものを見る機会を得た.形態としては,B4版の用紙にコピーされたマザリーヌ図書館のアルマン・ダルトワによるカタログ──それ自体がモローの『目録』に加筆されたものであることはすでに述べたとおりであるが──,そこにキャリエ自身が手書きで,さらに加筆訂正したものである.この段階ですでにそれは7巻に分冊されていた.量的な増加は当然の結果であろう.さらに著作のなかで予告された改訂に加え,個々の文書がどのコレクションに収録されているかという情報が追加されていた.これはモローの『目録』にはまったく見られない情報であり,文書が世界に一点しか現存しない場合,それを参照しようとする研究者にとってはきわめて貴重な情報源となろう.文字通りそれは地理的にも研究者の航海を導く星座表になるということである.
2. キャリエの目録と東京大学コレクションの関係
だが,この新しい目録は,それだけでなく,わたしたちにとってじつは直接的な関わりをもつことになるのだ.この目録作成にあたっては,フランスの内外を問わず,収録文書数が2,000点を超すコレクションは,すべて調査の対象にされているからである.東京大学総合図書館蔵のマザリナード・コレクションは,少なくとも2,600点を超える.したがって,このコレクションは新しい目録の調査対象となる資格を優に備えている.それゆえに東京大学のコレクションは全体の把握が求められている.そこに含まれるすべての文書の記述が必要とされているのだ.
じっさいに1998年5月,東京大学コレクションについて,この総合目録のために以下のふたつの情報が求められた.ひとつはコレクションのなかで,モローの『目録』およびモロー,ソカール,ラバディによる増補に記述されていない文書はどれか,もうひとつは上記の目録・増補に見いだされるもののうちで,記載内容と異なる形態──タイトル,出版地および年月日,印刷者の名前,ページ数,用紙サイズ──をもつものはどれか,ということである.この調査に協力することは東京大学コレクションの調査にとっても有益であった.こうした協同の確認作業の結果,東京にしか現存しないと思われる文書,あるいはそれまでに1点しか見つかっていなかった文書の発見につながったのである.これらの新しい発見については,この後,東京大学総合図書館所蔵コレクションの特徴の中で述べる.同時にそれらは将来出版される総合目録に「稀少文書」としてその所在地とともに記録されることになっている.また,この調査の全体の結果は「東京大学コレクション目録」として,本論に添付するものとする.(ただし,序論でも述べているように,ここに添付する目録は完成されたものではない.段階としては,正式な目録が作成されるための資料と位置づけられるべきものである.)
現実問題として,マザリナード研究は文書を参照しなければならない.それにはいずれかのコレクションを利用することが必要である.コレクションはさまざまな量で各地に分散している.いいかえるならマザリナード文書の総体を一度に見渡すことはできないのだ.そこで望ましいのは2種類の目録が同時に使えることである.ひとつは実物を参照するために,各コレクションに含まれるすべての文書を記述してある目録.もうひとつは全体を見渡す総合目録である.東京大学コレクションを参照しようとする場合,前者に相当するものが不完全だったが,少なくとも本論に添付された新しい目録により,そこにある文書の正確な把握は可能になったはずである.そして後者に相当するものは,キャリエによって予告されている「全マザリナード文書の歴史的・批評的目録」がまだ出版されていない以上,当面はモローの『目録』を参照せざるをえない.だが,すでにその不備は明らかであるから,それを補うものとして,随時キャリエによる既刊の著作を参照することになろう.
第3章
東京大学総合図書館蔵コレクションの記述
東京大学総合図書館蔵のマザリナード・コレクションは,2,600点を超すその規模から,第2章で紹介したユベール・キャリエとルネサンス高等研究所によって計画されている新しい総合カタログ「全マザリナード文書の歴史的・批評的目録」の調査対象になるものである.しかしながら,このコレクションにはまだ正確な目録がない.それはひじょうに不便であるだけでなく,コレクションの存在様態としても不完全である.少なくともどのような文書があるかをもらさずに記述した目録が作成されなければならない.本論の調査結果はその準備に役立つはずだが,この章の中で記述するには分量が多すぎるので,独立したかたちで添付することにしたい.ここでは,本コレクションの特徴を記述する.すなわち由来と5つの下位コレクションの特徴と最終的な総数であるxxvi.
I.全体の由来
東京大学総合図書館に所蔵されているコレクションの受け入れ当時の状況を示す書類として残されているのは,昭和53年度の「東京大学図書受入票」(整理番号78119)のみである.この記録からわかるのは,44巻からなる「マザリナード文書: 1647から1652年にかけての約2,800点からなるフランスの政治文書の広範囲なコレクション« Mazarinades : A Comprehensive Collection of Year 1647-1652 /About 2800 French Political Pamphlets »」という名称のコレクションが,40,500,000円で購入され,昭和53年(1978年)11月29日に貴重書として書庫に入ったという事実だけである.この「受入票」には目録は記載されていない.総合図書館によれば,購入は書籍商「丸善」を仲介して行われ,納入に際して「由来書」のようなものはなく,既述の目録がついてきたのみであったという.
そこで「丸善」に問い合わせてみたところ,古書部からの返答は以下のようなものであった.このコレクションは「昭和52年頃にアムステルダムの書籍商デッカー&ノルデマン書店(Dekker & Nordemann)から購入したもので,ベルンシュタイン氏(Mr. M. Bernstein)の後妻であったモニク・ロラン夫人(the late Mrs Monique Rollin)が所蔵していた」ものである.つまり,東京大学以前の所有者はモニク・ロラン夫人であるが,それ以前についてはわからない.しかしながら,少なくともこのモニク・ロラン夫人の手元にあった時点では,すでに由来を異にする5つのコレクションがひとつにまとまっていたということであるxxvii.
それら5つのコレクションの由来であるが,どのような経路をへてモニク・ロラン夫人のもとに集められたかは不明である.だが,それぞれのコレクションについてはその物質的・外見的特徴,とりわけその装丁あるいは蔵書票を手がかりに,およそいつ頃の時期に成立したものであるか,どのような人物の関与があったかについて,ある程度の調査が可能である.そこで次に各コレクションについて,その外見的特徴から推測しうる由来と成立年代,および内容を記述することにしようxxviii.
II. 各コレクションの由来と特徴
第1コレクションA(全9巻)
a) 外見的特徴xxix
・仔牛革装.
・表裏に王冠の下に3つの百合およびバトンを組み合わせた紋章が刻印されている.
・各巻の背には金文字で「 RECUEIL DE PIECES 」と刻印されている.各巻に順番を表す番号付けはないxxx.
・装丁の特徴──とりわけ見返しに使用されているマーブル紙のストーン模様──から18世紀,おそくとも18世紀中頃までに装丁されたものと思われる.仔牛革にマーブル模様がついていた可能性もある.
・表紙の裏側にあとから糊で張り付けられた紋章の下に「Bibliothèque du Château de Valençay 」と書かれた蔵書票が見いだされる.紋章の銘は「 RE QUE DIOU」.見返しの遊びにも「 Château de Valençay 」と書かれた楕円形の蔵書印──青インクのゴム印──が押されている.
・第1巻目の見返しの遊びには,鉛筆により「Armes : Princesse de Conti + 1750」の書き込みがある.
・また各巻の見返しの遊びには,その巻の文書数と思われる数字が鉛筆で書き込まれているが,それはかならずしもじっさいの文書数と一致しない.
b)由来および特徴
以上にあげた装丁などの外見的特徴からからコレクションAの由来に関しては,次のように考えられる.まず裏表に刻印された紋章は,そのかたちからルイーズ‐アデライード・ド・ブルボン‐コンティ Louise-Adélaïde de Bourbon-Conti(1696-1750)の紋章であるxxxi.彼女はコンティ公 François-Louis de Bourbon(1664-1709)とマリー-テレーズ・ド・ブルボン-コンデ Marie-Thérèse de Bourbon-Condé(1666-1732)のあいだに生まれた.彼女の紋章は多くの本の装丁に見いだされることから,多量の蔵書を有していたといわれる.コレクションAは最初にこの人物の蔵書の一部であったと考えられる.それは18世紀,おそくとも18世紀中頃までに装丁されたと思われる外見的特徴の年代とも一致する.鉛筆による書き込み「 紋章 コンティ公女 没年1750 Armes : Princesse de Conti + 1750」がいつなされたかはわからないが,少なくともそれはこのコレクションが彼女のもとを離れ,最初の持ち主がわからなくなった頃に,わたしたちと同様,紋章を手がかりに由来を調べた人の手によって書かれたものであろう.
次に「ヴァランセー城図書館 Bibliothèque du Château de Valençay 」「ヴァランセー城Château de Valençay」と書かれた蔵書票および蔵書印であるが,この城はアンドル県にある.18世紀末から19世紀初頭に外交家として手腕を発揮したフランスの政治家タレーラン Charles Maurice de Talleyrand-Périgord (1754-1838)のものであったことが知られている.ただし,蔵書票の紋章はタレーラン個人のもの──3頭のライオンと1頭のイノシシの組み合わせ──とは少し違っている.蔵書票では王冠を戴き剣をもった3頭のライオンの紋章をさらに2頭の鷲が挟み込んでいる.しかしながら,王冠を戴く3頭のライオンは18世紀にタレーラン家で使われており,この蔵書票に使用されている図案ときわめて近いものが,ペリゴール伯ガブリエル‐マリ・ド・タレーラン Gabriel-Marie de Talleyrand (1726-1795)もしくはその弟であるタレーラン伯シャルル‐ダニエル・ド・タレーラン Charles-Daniel de Talleyrand (1734-1788)の紋章である.オック語で書かれた紋章の銘「我らの上には神しかいない RE QUE DIOU」も一致するxxxii.年代的にはこのふたりの人物のいずれか(ペリゴール伯はコンティ公女の没年にはまだ生まれておらず,タレーラン伯は16歳に過ぎない)がコンティ公女の死後,その蔵書の所有者になったと考えられるが,確証はない.むしろこの蔵書票は,タレーラン家の蔵書につけるため,18世紀のタレーラン家の紋章にさらに2頭の鷲をあしらって図案化されたのではないだろうか.タレーラン個人やタレーラン家の誰かに結びつけるよりも,18世紀の半ば以降,このコレクションが同家の蔵書であったことをこの蔵書票はあらわしていると考えた方がよいだろう.じっさい,青インクのもうひとつの蔵書印も比較的新しく.ヴァランセー城が現在もまだタレーラン家の所有であることから,このコレクションは長らく同家の蔵書であったのち,何らかの事情によって売りに出されたものではないのか.そこから先にこのコレクションが誰の持ち物になり,最終的にモニク・ロラン夫人のもとにいたったかは不明である.
だが,コレクションAに関しては,もうひとつつけ加えておくことがある.仔牛革で18世紀に装丁され,各巻の背に「文書の集成RECUEIL DE PIECES」と刻印され,ヴァランセー城の蔵書票をもち,6巻からなるコレクションが,レニングラードの科学アカデミー歴史学士院図書館 Léningradskoïe Otdélénié Institouta Istorii Akadémii Naouk で見つかっていることだxxxiii.外見的特徴からいって,この6巻が東京にあるコレクションAとあわせて,コンティ公女のコレクションであったのはほぼまちがいない.
レニングラードにある6巻の内訳は1649年の文書を集めた4巻,1650年,1651年のものが各1巻ずつからなり,全部で195点のマザリナード文書が時系列的に整理されている.このコレクションを紹介したキャリエによれば,時系列的蒐集にもかかわらず,1652年の文書が含まれていないので不完全であると評価されている.だが,レニングラードの6巻,東京の9巻をあわせてコンティ公女のコレクションであるとするなら,1652年の文書を集めた巻が別のどこかに存在する可能性もある.のちに東京大学の第3コレクションC,第5コレクションEの由来でもう一度ふれることになるが,マザリナード文書は,蒐集され,装丁されたのちにも,何巻かをひとまとめにして,あるいは装丁をまた切り離して売られることもある.そして東京の第1コレクションA全9巻を構成する年代と,レニングラードのそれとを対照すると,もともとのコンティ公女のコレクションには,他の巻が存在していた可能性はきわめて高いといえるのだ.
第1コレクションAは,先に見た『図書館の窓』によれば「1649年の文書を中心とし,ほぼアルファベット順に整理されている」とされているが,じっさいには1648年の文書もごく少数ながら含まれ(A-1-27~33, A-7-5の計8点),特に第9巻目は,最初の3つをのぞく残りすべてが1650年の文書なのである.またモローの『目録』では出版が1652年と推定されている文書([3845])も,ひとつだけだが,7巻目に含まれている(A-7-53.同じ文書が第5コレクションのE-84にあるが,これらの文書にはいずれも出版年が示されてない).この年代構成をレニングラードのそれと比較すると,次のような推論が導かれる.
キャリエの研究によれば,〈フロンドの乱〉の時期に印刷され,現存している文書の総数は約5,200あるとされるのだが,その年代別内訳は1648年(50点),1649年(1975点),1650年(725点),1651年(800点),1652年(1600点),1653年(50点)となるxxxiv.東京,レニングラードのコレクションで1649年の文書が大半を占めるのは,この年にもっとも多くの文書が印刷されているから当然といえよう.一方,急激に出版数が落ち込んだ1650年の文書は東京とレニングラードで2巻である.しかしながらやや数が増え始めた1651年の文書はレニングラードに1巻だけしかない.そして出版数がふたたび急増した1652年の文書を集めた巻はひとつもない.1652年の文書が東京のコレクションに紛れ込むようにして1点あることから,それはやはりどこか不自然である.文書の出版数が極端に少なかった1648年の文書もまた,ごく少数ながら東京のコレクションには見いだされる.そうしたことからも,コンティ公女のコレクションは,場合によっては,1648年,1653年の文書まで含めた〈フロンドの乱〉全体にわたるものだったのではないかとも考えられるのだ.
さらにもうひとつ,内部構成においても,レニングラードのコレクションは興味深い問題を提起する.東京の第1コレクションAはほぼアルファベット順に整理されている.一方,レニングラードのコレクションは時系列的に整理されているということだ.しかしながら,東京のコレクションも第1巻だけは,じつは時系列配列になっているのである.
第1巻A-1の内部はおよそ3つのブロックに分かれている.A-1-1から26までは1649年1月6日以降,3月29日までの文書,あいだに1648年の7点の文書(これは7月,9月,10月のバリケード事件の前後の公文書)を挟み,A-1-34からはふたたび1649年1月6日の文書から9月9日までの文書がほぼ時間を追って並べられている(ただし,A-1-71だけは1月の文書が3月の文書のなかに紛れ込んでいる.) そこには国王の宣言や親書なども含まれるが,ほとんどがパリ高等法院の裁決であり公文書に属するものである.いいかえるならこれらの文書は,1649年1月6日の夜に国王が突如パリを離れたことに端を発する〈パリ包囲〉から──4月1日の宮廷と高等法院との和解をへて,8月18日に国王がパリへ戻って来て──首都の混乱がおさまるまでの9月から12月にかけて,今度は宮廷とコンデ大公との対立が急激に深まっていくその直前までの,主にパリ高等法院の裁決である.その意味では第1コレクションA第1巻は,公文書を時系列的に配列しているともいえるのである.
しかしながらこうして第1巻に集められた文書は,そのほとんどが高等法院の「裁決 arrêt」であるために,アルファベット順の最初の巻としても通用するのである.じっさいモローの『目録』でもこれらの裁決に関しては,まとめて時系列的に整理されているのだ.そして第2巻目以降は,各巻の文書はほぼアルファベット順に配置されている.「ほぼ」というのは,かならずしも厳密ではないからである.およその外観として,各巻の含むタイトルの最初の文字を示すと以下のようになる.
A-1:Aで始まる公文書の時系列配列
A-2:A, D, E (B, Cで始まるタイトルは含まれない)
A-3:A, B, D, E, F, G, H (Cで始まるタイトルは含まれない)
A-4:F, G, H (34番目の文書以降の12の文書は順不同)
A-5:L, U, V (圧倒的にLで始まるタイトルが占める)
A-6:M, N, O, P
A-7 : P, Q, S, T, U, V (Rで始まる文書は含まれない)
A-8:R (Rで始まる文書のみ)
(1650年の文書を集めた第9巻はまったくアルファベット順ではない.)
文書の整理にアルファベット順が用いられているとしても,装丁する際,各巻の大きさをそろえるために順番がくずされている可能性がある.たとえば第8巻は,「R」で始まる文書の分量が多かったので,本来の第7巻には入れずに,独立した一巻にしたと推測されるのである.ただし,1649年は〈フロンドの乱〉全体を通じてもっとも多くの文書が出版された年であり,公文書はともかくとして,文書が出版された日付を特定するのはむずかしい.それゆえこの一見アルファベット順に見える配列のなかにも,なんらかの時系列が隠れていないとはいえない.文書の配列順序は〈フロンドの乱〉以後のマザリナードの受容形態を知るうえで,きわめて興味深い問題であるだけに,正確にコレクションAの内部構成を知るには,レニングラードのコレクションと比較対照する必要がある.
では次にコレクションAを構成する文書の具体的内容であるが,最初にそれは大きくふたつのカテゴリーに分けられる.ひとつは公文書であり,もうひとつはそれ以外の印刷物だ.このふたつのカテゴリーは他のコレクションにも共通する.いいかえればマザリナード文書の全体にも共通するということである.
ほぼアルファベット順に整理されているコレクションAにおいて,第1巻が例外的に時系列的配列をもっていることはすでに見たとおりだ.第1巻の文書はほとんどがパリ高等法院の裁決と国王の親書や王令である.公的性質をもつこれらの文書,とりわけ高等法院の裁決にはタイトルに日付が入っているので,時間的推移にしたがってどのような政治的変化が生じたかを知ることができる.たとえば,第1巻の Arrêt de la cour de parlement, donné, toutes les chambres assemblées, le sixième jour de janvier 1649, pour la sûreté et police de la Ville de Paris . (A-1-34, [216])は,国王がパリを離れた直後,その日の内にパリの治安維持に関して出された裁決であるxxxv.高等法院の裁決は,たいていこのようにタイトルに日付と内容が示されることが多い.それゆえ内容によっては,ひじょうに長くなる場合もある.たとえば,その一週間後に出されたマザラン枢機卿の財産差し押さえに関する裁決は次のようなものだ.Arrêt de la cour de parlement, portant que tous les biens meubles ou immeubles et revenus des bénéfices du cardinal Mazarin seront saisis, et commissaires, séquestres et gardiens commis a iceux. Du 13 janvier 1649 .(A-1-39, [224])
しかしながら,タイトルがいつも内容を示しているとはかぎらない.たとえば1月10日のパリの高等法院裁決 Arrêt de la cour de parlement, toutes les chambres assemblées, le dixième jour de janvier 1649.(A-1-36, [220])では,単に日付が示されているだけだ.この裁決はパリ高等法院とパリ市庁舎のあいだで同一歩調をとる合意が成立したことを示す.1月6日に宮廷がパリを離れた直後,あくまで対決姿勢を崩さないパリ高等法院と,宮廷へ使者を送り低姿勢に国王の帰還を求めようとするパリ市は対立していた.これに対し,宮廷はパリ市に対して,パリ高等法院が首都を離れれば帰還するという返事を与えていたのである.1月7日には,前年の連合裁定で団結した4つの最高院に対して,宮廷からはそれぞれ別々の都市への移転命令が出されていた.だが,この文書に見るように,最終的にパリ市はパリ高等法院と協調することに合意し,宮廷と対立することになるのだ.これは1649年の年明けとともに始まり4月1日の和平まで続いた〈パリ包囲〉に関わる重要な出来事を示す文書なのである.だが,タイトルからその内容はうかがえない.
これらの高等法院裁決はほとんどが,公文書の印刷を許可されていた「国王付き印刷出版業者les imprimeurs et libraires ordinaires du roi」の名によって出版され,多くは4ページ程度の分量である.
こうした動きに対処する国王側の文書もまた第1巻には少数ながら含まれる.第1巻の最初の文書 Lettres et déclaration du roi sur le sujet de sa sortie de Paris, avec l’arrêt de son conseil d’État, portant cassation de celui du Parlement de Paris, concernant le logement des troupes de Sa Majesté.(A-1-1, [2289])は,宮廷がパリを離れて,サン‐ジェルマン‐アン‐レーに移ったという「国王宣言」である.この宣言には日付がないが,注目されるのは印刷地として宮廷が移動した先のサン‐ジェルマン‐アン‐レーが示されていることである.第1巻に多く見られるように,高等法院やパリ市の動きを牽制するための国王宣言に類するものは,パリではなくこのサン‐ジェルマン‐アン‐レーでも印刷されている.たとえば,宮廷のパリ高等法院に対する強硬な反対姿勢を公言した1月23日の国王宣言 Déclaration du roi, portant suppression de toutes les charges et offices dont sont pourvus les gens ci-devant tenant la cour de parlement de Paris ; pour les causes y contenues.(A-1-4, [941]),2月に入ってすぐに,高等法院に同調しないようパリ市に働きかけるための国王親書 Lettre du roi au prévot des marchands, échevins et bourgeois de la ville de Paris, écrite le premier jour de février 1649.(A-1-9, [2142])などである.これらの文書は宮廷と一緒にサン‐ジェルマン‐アン‐レーに移動した印刷業者テオフラスト・ルノード Théophraste Renaudot (1586-1653)によって出版されたものだ.ガゼット La Gazette の出版で知られるこのルノードは,本来,公文書を印刷する権利をもたなかったxxxvi.その権利をもっていたのは,先に見たパリ高等法院裁決を出版していた「国王付き印刷出版業者」なのである.つまり,1649年の1月から3月まで〈パリ包囲〉の期間,公的な印刷業者,いいかえるなら公共のメディアはパリ高等法院に押さえられていたということである.4月1日の宮廷と高等法院の正式な和睦を宣言した王令 Déclaration du roi, pour faire cesser les mouvements et rétablir le repos et la tranquillité de son royaume, vérifiée en parlement, le 1er avril 1649.(A-1-79, [944])は,ようやく「国王付き印刷出版業者」の名によって出版されている.もちろん,この「国王付き印刷出版業者」のなかには,宮廷に忠実な印刷業者もいて,その筆頭としてアントワーヌ・エティエンヌ Antoine Estienne,ピエール・ロコレ Pierre Rocolet などがいたが,なかにはギヨーム・サシエ Guillaume Sassier のように,フロンド側と宮廷側の両方に協力する印刷業者もあったxxxvii.第1巻にはピエール・ロコレによる国王親書8点と国王国務会議の決定が1点含まれているxxxviii.
その他の特徴としては,この第1巻に紛れ込むようにしてある7点の1648年の文書があげられる.1648年に印刷された文書はわずかに50点しかないこと,また,この7点が時系列的なひとつのまとまりを成していることから,もともとのコンティ公女のコレクションには1648年の文書を集めた巻が独立してあった可能性もある.これらの文書はやはり公文書に属するもので,1648年7月18日にパリ高等法院で確認された課税に関する不正追及のための組織をつくることを許可した国王の許可状(A-1-27, [2294]),やはり7月18日付けで援税院で確認された,治安監督官の罷免,1646年の未納分まで遡り,48年,49年に関しては四半期分の2分の1の免除,およびその任にあたる役職の創設に関する王令(A-1-28, [939]),9月1日および4日付けの年金の支払い規則に関する高等法院裁決(A-1-29, [206]),オルレアン公およびコンデ大公から高等法院に宛てた,いずれも9月23日付けの親書(A-1-30, [2270]),9月27日付け治安と通行に関する高等法院裁決(A-1-31, [207]),10月12日付けで徴税請負人らに牛や羊などの家畜に対し不当に課税を引き上げることを禁止した高等法院裁決(A-1-32, [208]),10月24日に高等法院で確認された司法,治安,課税に関する規則および人心の安定に関する王令(A-1-33, [936])である.これらの文書の印刷時期は,ブルーセルの逮捕(8月26日)に先立ち課税や徴税請負人の不正に対する追及が激しくなった7月,およびブルーセルの釈放後,宮廷と高等法院の協議が行われた9月から10月に相当し,そして最終的に7月31日に出されていた高等法院の改革案を再度宮廷側が認める10月24日までということになる.つまりまさに〈フロンドの乱〉の始まり,〈バリケード〉事件前後のものなのである.
最後にこの第1コレクションAが含む文書の総数は, A-1(103点),A-2(69点),A-3(83点),A-4(46点),A-5(109点),A-6(85点),A-7(69点),A-8(82点),A-9(41点)と,合計687点となる.このコレクション内で重複するタイトルは少なく6つ.またモローの『目録』に記載がないとされる文書は17点である.この内,じっさいにはモローの『目録』に見いだされるか,その別の版であるもの,あるいは第2増補で追加されたものが4点.残り3点の不明以外は,マザリーヌ図書館に見いだされるxxxix.
第2コレクションB(全20巻)
a) 外見的特徴xl
・仔牛革装xli
・表と裏表紙,中央に,「D」の内側に「B」を入れ込んだ組み合わせ文字が4枚の花弁の中央に来るように刻印されている.おそらく,16世紀後半から流行する「ファンファール様式」ではないかと思われる.第1コレクションAの装丁と異なるのは,中央のこの文字を取り囲むようにして,表紙全体に細かな点による金箔押し装飾が施されていることであるxlii.また見返しにも革の縁にそって金箔押しの装飾(ダンテル)がある.
・各巻の背表紙に金文字で「VOLVM」と各巻の数字.全20巻のうち,10巻目と11巻目の背表紙の数字がアラビア数字ではなくローマ数字「X」,「XI」を用いている.
・装丁の時期は,表紙に見られる金箔押し装飾の様式と,見返しに使用されているマーブル紙(花束模様)などから,17世紀に装丁されたと考えられる.東京大学コレクションの中では早い方である.
・表紙の裏側にあとから糊で貼り付けられた正方形の紙に版画による蔵書表(紋章)がある.王冠をいただくこの紋章は,中央に両側から二頭のライオンに支えられる楕円があり,その中に左上から右斜め下に横断するバトンがある.バトンの中央に4本の剣状のモチーフが一列に配置されている.このバトンで区切られてできる上下の空白には縦の細い線が引かれている.これはこの半円の部分が「赤」であることを示すものだろう.紋章を単色で描く場合に,色が「線」に置き換えられるというコード化が完成するのは17世紀の初めだが,それによると「赤」は縦線で示されるというのだxliii.この紋章が誰のものかは不明である.ただし,王冠のかたちはコレクションAのコンティ公女の場合と違って,百合のついていない王冠,すなわち公爵の紋章である.
・見開きの遊びには,その巻の文書数と肖像画の数が手書き,鉛筆で記入されている.第1巻だけはその下に,「Mazarinades」と書かれ,つづいて全体の文書数と肖像画の数「931 pièces,105 portraits」が書かれている.肖像画の数については実物と一致している.
・各巻の一番最初の文書には,黒インク・ゴム印で蔵書印「ExBibl. / Ios. Ren. Card. / Imperialis.」が押されているxliv.
・各巻には,そこで話題となっている人物の肖像画が入っている.(全部で105枚).これらの肖像画の作者は「Daret」,「Moncornet」,「Mazot」xlv.だが,作者名のないものも含まれる.
・見返しの遊びに使われている白紙にはすかし模様が見出される.王冠の下に,左半分に複数の花,右半分に横線を配した盾の紋章である.
b) 由来および特徴
外見的特徴――とりわけ装丁の金箔押しの模様――から,コレクションBは17世紀に装丁されたと考えられる.文書数が900を超えることも「個人」のコレクションとしてはたいへん大きいものである.〈フロンドの乱〉とほぼ同時代にこれだけの文書が集められ,かつこれだけ美しい装丁が施されていることは驚くべきことであるというしかない.この装丁は,おそらく何回かに分けて出されたか,あるいは複数の職人が従事したと思われる.背表紙の数字が2巻分だけローマ数字になっているからである.「X」巻はレ枢機卿,「XI」巻はマザランに関する3巻の最初の巻である.たいへん興味深い点は,「人物」ごと,「テーマ」ごとの分類である.この問題は,あとで内容の特徴に関して述べるときにもう一度とりあげる.
さて,このコレクションの由来であるが,残念ながら,現段階では特定の人物につながるような結果は得られていない. 4枚の花弁の中央にある「B」と「D」の組み合わせは,装丁を依頼したコレクターのイニシャルと思われる.それにしても,これだけの数の文書がまとめられていて,しかもきちんと分類され,17世紀に装丁されていることからすれば,B. D. 氏(あるいはD. B. 氏か)は〈フロンドの乱〉を生きたか,かなり近い同時代人であったろうと考えられる.少なくとも第1コレクションのコンティ公女よりも〈フロンドの乱〉の記憶に近かったのではないだろうか.表紙の装飾に紋章ではなく,文字の組み合わせを用いているところから,貴族ではないことも考えられる.一方,表紙の裏側にある版画の蔵書表(紋章)には公爵の冠が掲げられている.これが「装丁依頼者」のものでないとすれば,次の「所有者」のものであろうか.この紋章の持ち主が,各巻の最初の文書に押された蔵書印(文字)の持ち主と異なるなら,また別の「所有者」がいたことになる.おそらく何人か所有者を変えているとはいえ,このコレクションはそのたびに良心的な所有者に出会ってきたらしい.すでに見たコレクションAや,これから見るコレクションC,Eのように分割されたり,装丁を壊して切り売りされることなく,20巻がそろっているからである.わたしたちはこのコレクションの構成から,こうした文書に対する同時代人の受け取り方を知ることができるはずだ.
では次に,コレクションBの内容だが,もっとも大きな特徴は各巻の構成にある.20巻は以下のように人物,あるいはテーマごとに文書がまとめられている.
Vol. 1-3 (国王)
« RECVEIL / DE / PLVSIEVRS / PIECES / TOVCHANT / LES AFFAIRES / DV ROY. »
Vol. 4 (王太后)
« RECVEIL / DE / PLVSIEVRS / PIECES / TOVCHANT / LES AFFAIRES / DE LA REYNE »
Vol. 5 (ガストン・ドルレアン)
« RECVEIL / DE / PLVSIEVRS / PIECES / TOVCHANT / LES AFFAIRES / DE M. LE DVC D’ORLEANS. »
Vol. 6-7 (コンデ公)
« RECVEIL / DE / PLVSIEVRS / PIECES / TOVCHANT / LES AFFAIRES / DE MONSIEVR LE PRINCE. »
Vol. 8 (モンパンシエ公爵夫人とレオポルド大公)
« RECVEIL / DE / PLVSIEVRS / PIECES / SVR / MADAMOISELLES / ET M. L’ARCHIDVC LEOPOLD. »
Vol. 9 (ボーフォール公)
« RECVEIL / DE / PLVSIEVRS / PIECES / TOVCHANT / LES AFFAIRES / DE M. LE DVC DE BEAVFORT. »
Vol. X (レ枢機卿)
« RECVEIL / DE / PLVSIEVRS / PIECES / TOVCHANT / LES AFFAIRES / DE M. LE CARDINAL DE RETZ. »
Vol. XI-13(マザラン枢機卿)
« RECVEIL / DE / PLVSIEVRS / PIECES / TOVCHANT / LE CARDINAL / MAZARIN / Premiere Partie. »
Vol. 14
(タイトルページなし)
Vol. 15 (ポントワーズ高等法院)
« RECVEIL / DE / PLVSIEVRS / PIECES / TOVCHANT / LES AFFAIRES / DV PARLEMENT DE PONTOISE. »
Vol. 16 (和平)
« RECVEIL / DE / PLVSIEVRS / PIECES / TOVCHANT / LES AFFAIRES / DE LA PAIX. »
Vol. 17-20(その他)
« RECVEIL / DE / PLVSIEVRS / PIECES / Premiere Partie. »
14巻以降のタイトルには人名があげられていないが,コレクターが人物に注目していたことは,105という肖像画の数からも,また出来事をテーマにした巻にもまた,肖像画が入っていることからも,明らかである.そしてこの各巻の並び順が,国王を頂点とする「身分の序列」に一致することも意味深長である.国王(第1-3巻),王太后(第4巻)の後には,先王の弟ガストン・ドルレアン(第5巻)であり,筆頭親王家のコンデ大公(第6-7巻)はそのあとにくる.ボーフォール公爵(第9巻)は,ガストン・ドルレアンの娘(モンパンシエ公爵夫人)や外国の王族(レオポルド大公)(第8巻)より先に出てはいけないのだ.しかしながら〈フロンドの乱〉で最後に失脚したはずのレ枢機卿がマザラン枢機卿よりも「上席」を与えられているのは,マザランへの反感がそうさせているのだろうか.コレクションBの巻の並び順は完全に17世紀的身分の「序列」にしたがっているかに思われる.
こうした内部の「序列」で注目させるのが,ボーフォール公の巻が入っていることだ.〈フロンド〉の乱の主要人物のひとりであるとはいえ,ボーフォール公は,コンデ公や,マザラン,レ枢機卿などに比べれば,知名度が低い.この人物に1巻が振り当てられていることは,このコレクションの収集者の関心を理解する重要な手がかりになるのではないかと考えられるのだ.そこで,ボーフォール公がどのような役割を〈フロンドの乱〉で果たしたかを振り返りつつ,この巻の文書を見てみたい.
アンリ4世とガブリエル・デストレの間に生まれた非嫡出子,セザール・ド・ヴァンドームCésar de Vendôme を父にもつボーフォール公は,1642年の〈サンク‐マルスの陰謀〉に関わってイギリスへ亡命.リシュリューの死後,帰国を許されるやいなや,1643年に〈要人たちの謀議事件〉に加担して,ヴァンセンヌへ投獄される.1648年には脱獄.その足で〈フロンドの乱〉に加勢した.つねに反宮廷だが,パリ市民の間では〈中央市場の王〉Roi des Halles の称号を得るほど人気があったといわれる.とりわけ前半の,コンデ軍による兵糧攻め〈パリ包囲〉では,外から物資を輸送し,パリ市民の頼もしい味方となっている.
しかしながら,ボーフォール公はどちらかといえば,力で物事を解決する武人であったようだ.挑発的な貼り紙で民衆を煽動することはあってもxlvi,積極的に印刷物を武器にしようという姿勢はあまり見られない.そうした点において,以前から職業的に裁決などを読みあげていたパリ高等法院や,攻撃の手段としていち早く印刷物に目をつけたレ枢機卿,文書を使ってなんとかパリの民衆を味方につけたいコンデ大公らとは,少し異なっている.もちろん,公の名前の入ったマニフェストや宣言などもあるがxlvii,むしろ,ボーフォール公はそうした文書の中で「語られる」ことのほうが多い.その中でボーフォール公に関わり,印刷物になった有名な事件がある.ひとつは1650年10月29日の「ボーフォール公暗殺未遂事件」.もうひとつは1652年7月30日の「ヌムール公落命」である.どちらも〈フロンドの乱〉の大筋からすれば,枝葉末節に近い出来事といえるかもしれないが,これらの事件が印刷物にどのように反映したかは,当時の社会を知るうえで見逃せない.コレクションBにはこの両方に関わる文書が含まれている.
まず,「ボーフォール公暗殺未遂事件」だが,背景として,その年の初めにコンデ大公らが逮捕され,各地に反乱が拡大し,この事件が起きる10月,宮廷はボルドー鎮圧のためにパリを離れていたことがある.フロンド側は逮捕された大貴族の釈放を求めて,マザランを激しく追及した.そうした中,10月29日深夜,パリのサン‐トノレ街で,ボーフォール公の馬車が何者かに襲われ,郎党の貴族一名が死亡するという事件が起きたのである.11月2日,この出来事に関して「これはボーフォール公を狙った暗殺事件で,死んだ貴族は人違いされたのだ」という内容の文書Le Véritable récit de ce qui s’est passé et fait à l’assassinat commis proche l’hôtel de Scomberg, au sujet de monseigneur le duc de Beaufort.([3944])が出回った.そして,マザランが首謀者であるとほのめかす.11月4日,さらに同様の内容のL’Avis aux Parisiens([489])がパリのあちこちに張り出され,事件から3週間たってもなお,この件に関してマザランを非難する文書が出回っていた.コレクションBに含まれるのは,この時期の文書L’Exécution remarquable de trois méchants scélérats.(B-9-7,[1325])だ.しかしながら,事実はこれらの文書で述べられていることと全く違っていた.ボーフォール公の馬車が襲われて,人が殺されたのは本当だが,それは単なる物盗りだったのである.ボーフォール公を狙ったわけではなかったのだ.反マザラン派が,それをマザランによる「暗殺未遂」にしたてあげようとしたのである.事件については犯人の取り調べ証言も残っており,同時代人の手紙や日記にも書かれている.だが「事情を知らない」人に対しては,犯人(マザラン)をほのめかすだけで十分信じ込ませることができた.じっさいに信じてしまった人もいるのである.しかしながら,結局それが反マザラン派による「でっちあげ」だと知れ渡ってしまい,ボーフォール公はかえって体面を傷つけられたようだ.これは偶発的な強盗事件に陰謀であるかのような解釈をつけて流布し,反マザランの宣伝に印刷物が利用された例であるxlviii.
一方,「ヌムール公の落命」はじっさいに起きた悲劇的な事件である.1652年〈フロンドの乱〉の末期,ラ・ロシュフーコー公爵が顔に深い傷を負った7月のサン‐タントワーヌ門をめぐる激しい戦闘の後,パリ市に対しコンデ派の粛清が始まる.市庁舎ではフロンド側の集会がコンデ派によって銃撃戦に変わった. 7月6日の集会では,市政の実権をもつ商人頭がル・フェーヴルからブルーセルに代わり,コンデ大公とともにボーフォール公がパリ総督として軍事力を握る.パリ高等法院長モレは首都を離れた.パリに残っているのはコンデ派とオルレアン公寄りの法官約70-80名だった.〈フロンドの乱〉は内部から崩壊しつつあった.さて,残ったフロンド側の集会では,ブルーセルがガストン・ドルレアンを摂政にしようと提案するなど,マザランの排斥だけでなく,宮廷をまったく無視する動きが見られた.こうした動きを「革命的」と見るのは性急であろう.その一方で,彼らが重要議題として真剣に話し合ったのは,コンデ大公のためにアンジェAnger1sを守るなど,戦いに功績のあった貴族の爵位を,公爵に引き上げるかどうかということだったのだ.つまり,身分制度に対する否定が生じる余地は,まったくなかったのである.こうした状況下で,ボーフォール公とその姉の夫であるヌムール公 Charles-Amédée de Savoie, duc de Nemours(1624-1652)が「上席権」を争ったあげくに,決闘が行われ,後者が命を落とす結果になった.歴史家メティヴィエによれば,この事件が,フロンド側の王族に求心力を失わせ,悲惨と虚無感が〈フロンドの乱〉を崩壊させたというxlix.確かにこれは戦闘のような大きな事件ではなかった.しかし,同じ身分,しかも同族の中で「上席」を争った結果であるだけに,ヌムール公の死は,争いのむなしさを印象づける.「ヌムール公の落命」はじっさい多くの人の関心を呼んだようであり,これに関する文書も多い.それらの文書をあげておこう.
Récit du duel déplorable entre messieurs les ducs de Beaufort et de Nemours, avec ce qui s’est passé dans le Luxembourg entre M. le Prince et le comte de Rieux.(B-9-19, [2992])
Relation véritable de ce qui s’est passé dans le combat de messieurs les ducs de Beaufort et de Nemours, avec le sujet de leur querelle. (B-9-20, [3225])
Le Duel de M. le duc de Beaufort justifié par l’innocence de ses moeurs, par le succès de ses armes, et par sa fidélité incorruptible envers les bourgeois de Paris, avec le parallèle de ses actions et de celles du coadjuteur, pour servir de preuve à ses [sic] trois raisonnements.(B-9-21, B-14-16, [1176])
La Censure et l’antidote de quelques maximes très-pernicieuses, contenues dans un libelle qui a pour titre : Le Récit du duel déplorable entre MM. les ducs de Beaufort et de Nemours, adressé(sic) à la noblesse raisonnable et chrestienne.(B-9-23, [672])
Épitaphe de monsieur de Nemours.(B-9-24, [1267])
Regrets de Paris sur la mort de M. le duc de Nemours.(B-9-25, [3083])
Les Regrets de madame la duchesse de Nemours sur la mort du duc son mari.(B-9-26, E-74, [3082])
Lettre de consolation pour madame la duchesse de Nemours.(B-9-28, B-14-18, [1925])
コレクションBに含まれるのは以上の合計8文書だが,こうして印刷物が回覧されることにより,「ヌムール公落命」のニュースとともに,メティヴィエのいう「悲惨と虚無感」を共有する人々の数は確実に増えていったのではないかと考えられる.結果的にそれは和平へと全体の流れを変えていくことにつながるのではないだろうか.
ところで,ここにあげた「ヌムール公落命」に関する文書の中身や質はまちまちである.中には,Le Duel de M. le duc de Beaufort….(B-9-21, B-14-16, [1176])のように,ボーフォール公を擁護しているように見せながら,じつは,やや品位を欠く表現で盛んにマザランを中傷している文書もある.一方で,La Censure… (B-9-23, [672])のように決闘という「制度」をまじめに批判しているものもあるのだ.コレクションBの「ヌムール公落命事件」に関する文書を見るだけでも,《 mazarinade 》として蒐集されている文書が,かならずしも「反マザラン」に限らないことが見て取れるのである.
事実,こうした「反マザラン」ならぬマザリナード文書は,第11巻から第13巻の「マザランに関する文書」の中でも目立つ.マザラン擁護としては,たとえば,1652年1月18日の王令 Arrêt du conseil d’État du roi donné en faveur du cardinal Mazarin. (B-11-7, [371])は,マザランの首に懸賞金をかけた高等法院裁決(1651年12月29日)を無効にしたものだ.この件に関しては,説教師として名高いコオンDenis-Anthime Cohon, évêque de Dol et de Nîmes による有名なマザランの弁護Les Sentiments d’un fidèle sujet du roi sur l’arrêt du Parlement du vingt-neuvième décembre 1651.(B-11-22, [3648])がある.またマザラン自身が,1651年末に帰国するにあたって,フロンド派のプロパガンダに対抗するために書いた手紙 Les lettres du cardinal Mazarin envoyées à la reine et à monsieur le prévôt des marchands de la ville de Paris. (B-12-31, C-12-14, [2277])なども見つかる.
じつは「マザラン擁護」の文書だけではない.王太后の巻(第4巻)には「反王太后」で有名な文書La Custode de la reyne, qui dit tout.(B-4-15, [856]),コンデ公の巻(第6,7巻)には逮捕直後にそれを喜ぶ「反コンデ」の文書 Le Te Deum général de tous les bons Français sur la prise de Messieurs les Princes.(B-6-16, [3756]),旧フロンド派による「反コンデ」L’Alliance des armes et des lettres de Monseigneur le Prince, avec son panégyrique présenté à son Altesse Royale. (B-7-18, [60]),レ枢機卿の巻(第X巻)には対立するコンデ側からの「反レ枢機卿」の文書 Le Poignard du Coadjuteur.(B-10-22, [2806]),もちろんそれに応戦したL’Anatomie de la politique du coadjuteur faite par le vraisemblable sur la conduite du cardinal de Retz…(B-10-23, [83])のほかにも,この巻にはレ枢機卿からの「反コンデ」文書が数多く含まれる.つまり,このコレクションBの蒐集者は,フロンド側,反フロンド側に偏ることなく,どちらも集めているのだ.そして,巻の構成のところで最初に述べたように,当時の身分社会の序列を尊重しながらも,反王太后の過激な誹謗文書であるLa Custode de la reyne, qui dit tout.も「王太后」の巻に入れているのである.特にこの文書は, 1652年を中心とした「大貴族のフロンド」の文書を中心に集められたこのコレクションのなかで,少数を占める1649年の出版物だ.こうしたことからわたしたちは,おそらく同時代人であったと思われるコレクターの「収集方針」を垣間見ることができる.彼(あるいは彼女)は制度的には身分社会の中にいて,序列をごく自然に受け入れながらも,この歴史的出来事に対して,できるだけ多くの情報を人物を中心に再構成しようと試みたものと推測されるのである.人物に対する関心の高さは,多くの肖像画を挟んでいることにも現れている.
だが,なぜこのコレクションは1652年の文書が中心となるのだろう.第1コレクションAで触れたように,6年におよぶ〈フロンドの乱〉のうち,印刷物の量には二度の山があり, それが1649年と1652年である.前者を支えるのが「高等法院のフロンド」に関する文書,後者がコンデ派のプロパガンダとなる.すでに第1部の歴史的考察で見てきたように,〈フロンドの乱〉は前半と後半でかなり変化する.その連続性に関しては疑問視する歴史家がいることも指摘ておいた.コレクションBの蒐集者が1652年の文書を中心に,補足的に他の年代の文書を加えているのだとして,それとは別に1649年のコレクションをつくっていないのならば,この蒐集者にとって,前半のフロンドと後半のフロンドは,はっきり性質の異なる内乱だったと認識されていたことにはならないだろうか.やはり内乱の歴史的連続性と,同時代人の心性の問題に関しては今後も検討の余地があるだろう.
このほかにも,コレクションBがわたしたちに示してくれることは多い.たとえば,第1章で見た東京大学図書館の「紹介文」にある「これらの小冊子(=マザリナード文書)は,多くは10ページにも満たないパンフレットの類であって」という表現が,じっさいとは異なることである.確かに短いものも多いのだが,コレクションBの第1巻目の最初の文書は270ページである.ただしこれは出版年に手書きで訂正が施されているなど曖昧なところがあり,厳密には〈フロンドの乱〉の時期でない出版物の可能性が高い.しかしながら,そのほかにもB-1-2(15p.),B-1-7(36p.),B-1-8(23p.)B-1-14(22p.)B-1-15(16p.)など,かならずしも英語における「小冊子」という意味での「パンフレット」にはあたらないものがすぐに目につくのである.そこで平均値をとってみたくもなるのだが,「マザリナード」と呼ばれる文書の中には718ページにもおよぶノーデの『マスキュラ』Mascurat([1769])のような大著から,1枚刷りのものまであるため,あまり役にはたたないだろう.わたしたちがここでいえるのは,「小冊子」に限らず,文書の長さにはいろいろあるということだ.
コレクションBは14巻目以降,各巻のテーマが人物から物事,たとえば「ポントワーズ高等法院」や「和平」などになる.これらの巻の特徴は,連続性のある文書がまとめられていることだ.たとえば,第19巻には,1651年7月に集中して街路に貼られたコンデ側の文書5種類のうち,次の4点がまとめられている.
Avis aux gens de bien.(B-19-12, [486])
Second avertissement aux Parisiens, affiché à Paris le 14 juillet 1651. (B-19-13, [3604])
Troisième affiche apposée à Paris, le 19 juillet 1651.(B-19-14, [3889])
Quatrième affiche posée à Paris, le 24 juillet 1651.(B-19-16, [2938])
これらの檄文ははじめ貼り紙だったものが印刷された.2月にパリに「凱旋」したのち,次第に増す反コンデの勢いに,6月にはいよいよ身の危険を感じるまでになったコンデ公が,7月に入って巻き返しを図ったのが,これらの檄文である.こうした政治状況の背後にはポール・ド・ゴンディ副司教の煽動があった.今日,同時代人の手書きによる写しだけが残っている反コンデの貼り紙はおそろしく暴力的な内容だl.上記の4つの文書は,コンデ派とゴンディ派で貼り紙合戦となったときのものである.じつは,このときの5番目の文書Le Duc de Beaufort aux bons bourgeois de Paris. Cinquième affiche. Le 30 juillet 1651. (B-9-18, [1175])は,コレクションBにもあるが,第9巻(ボーフォール公の巻)に入っている.タイトルにボーフォール公の名前が入っていたためだろう.おそらく同様の理由で,4番目の貼り紙の別タイトルの版Le Prince de Condé aux bons bourgeois de Paris. Quatrième affiche. (B-7-21, [2865])も,第7巻(コンデ公の巻)に入れられている.
ほかにも,連続性のある文書がまとまっている.Le Mercure de la cour, ou les Conférences secrètes du cardinal Mazarin avec ses conseillers et confidents pour venir à bout de ses entreprises. Dédié aux Parisiens, avec cette épigraphe : « Nolite fieri sicut equus et mulus, quibus non est intellectus. » (B-18-1~5, [2452])は,1652年5月末ごろから8月の初旬までに, 5回に分けて出版された16から32ページの一揃いである.この文書は,マザランが宮廷に残るべきかどうかに始まり,マザランの財産や王妃との関係などを大胆に書いている.
さらに,Le Journal contenant les nouvelles de ce qui se passe de plus remarquable dans le Royaume pendant cette guerre civuile, à Paris ; le vendredi 23 août 1632(sic).(B-18-11-21, [1740])liは,モローが希少性の高い文書であるとし,逸話が豊富にあるため目録にいくつか抜粋しているものだ.毎週金曜日に出たこの文書を,モローは12で完揃いとするが,コレクションBでは1652年の8月23日から10月30日まで(日付は各文書のタイトルに入っている)11週分しかない.タイトルの異同はモローも指摘しているが,コレクションBの文書に関しては,そうしたタイトルも含め,むしろマザリーヌ図書館のダルトワの記述に一致するlii.ダルトワは,モローが[1758]を加えて12部と考えているのではないかとしているのである.モローは説明抜きで[1758]の参照を [1740]に送っている.この [1758] Journal de tout ce qui s’est passé par tout le royaume de France, ensemble ce qui s’est passé dans le conseil du roi et de messieurs les princes et du Parlement (23-27 septembre). はコレクションBにも存在する(B-18-7).だが,タイトルと日付の連続性に欠け,ひとつのグループとして扱うべきかどうかは検討を要するだろう. [1758]を含むのか,含まないのか,いずれにせよコレクションB第18巻ではモローの『目録』にある[1740] 12種類を全部を参照することができる.
また,詩人ジャン・ロレ Jean Loret (1595-1665)がロングヴィル公女(のちにヌムール公爵夫人)に宛てた8つの書簡 La Gazette du temps, en vers burlesques.(B-18-23-30, [1471])もある.モローの記述では全部で9つ,La Gazette nouvelle… を加えると10で完揃いとなっている.コレクションBの蒐集家は9つめに,La Gazette nouvelle… の海賊版 La Nouvelle Gazette du temps, en vers burlesques. Du dix-neuvième octobre 1652. (B-18-31, [2549])を加えている.オリジナルが手に入らなかったということであろうか.
こうしたことのほかにも,コレクションBの第14巻以降,人物以外のテーマでまとめられた巻には,アルノー・ダンディ Robert Arnauld d’Andilly (1589-1674)がコンデ派とレ枢機卿を批判した文書 La Vérité toute nue. (B-17-13, [4007]),それに対するレ枢機卿の反駁 Le Jugement rendu sur le plaidoyer de l’auteur de la Vérité toute nue et l’Avocat général, partie adverse…(B-17-15, [1775]),デュボスク‐モンタンドレ Dubosc-Montandréが書いたコンデ側からの反駁 L’Avocat général, soutenant la cause de tous les grands de l’Etat, outrageusement offensés dans le libelle intitulé : La Vérité toute nue….(B-17-14, [555]) などに見るように,「反マザラン」とは別のところで激しい文書の攻防戦があったことを示すものが多数見つかる.こうしたものが調べやすいのも,テーマごとに文書がまとめられていることの利点である.
また,このコレクションのほとんどの文書は1652年のものである.キャリエによれば,1649年につぐ数多くの文書が出版された年とはいえ,それぞれの発行部数は比較にならないほど落ち込んだという.流通する部数が減ったために集めにくく,かなり大きなコレクションでも1652年の文書は数が少ないそうであるliii.その意味でこのコレクションはひじょうに貴重である.
さらに,コレクションBの20巻の中には,『図書館の窓』の紹介で,東京大学コレクション全体で223点あるといわれる「モローの『目録』に未記載の文書」のうち, 152点が集中している.そのほとんどは,今回の調査の結果,モローの『目録』になくても,増補や,あるいはマザリーヌ図書館のカタログに見つかった.しかし,このコレクションBには,存在がすでに知られていても,これまで世界に一点しかないと思われていたものが,今回の調査で見つかったことを特記しておきたい.たとえば第5巻のコンデ公に関する文書でRelation veritable de ce qvi s’est fait et passé en Parlement le Lundi 7. Octobre 1652. Toutes les Chambres Assemblées. En presence de son altesse royale, & Plusieurs Ducs & Pairs de France. Avec la nouvelle déclaration de son Altesse Royale, pour la Paix Generale. (B-5-11)は,ゲッティンゲンに一点しか現存しなかったが,これで世界に2点となった.また,Reqvest des pavvres mandians et manovvrier de la ville & faux-bourgs de Paris, presentée à son Altesse Royale, & donnée à Monsieur de Broussel, puis communiquée à Monsieur le Lieutenant Particulier. Pour la police du pain, contre les Boulangers, où est representé leurs tromperies & mal versations. (B-5-13)も,これまでは,ロンドンのブリティッシュ・ライブラリーの一点が確認されただけであった.いずれもパリのマザリーヌ図書館にはない文書なのである.
Declaration du Roy portant restablissement de la Chambre des Comptes. transferée à Ponthoise, en la Ville de Paris. Verifiée en ladite chambre le vingt-deuxième Octobre 1652.(B-15-48)は,マザリーヌ図書館にもパリ国立図書館のカタログにも見出されない.宮廷がパリに戻り,ルーヴル宮で国王親裁座がもたれ,すべての反対勢力が排除された日の国王宣言のひとつである.キャリエの鑑定では,おそらく今日現存する唯一の文書であろうといわれる.
これらを含めて,コレクションBにあって,モローの『目録』に記載がないとされる文書152点の調査結果は一覧表に送ることにしよう.
最後に,第2コレクションBがもつ文書の総数であるが, B-1(30点),B-2(35点),B-3(26点),B-4(27点),B-5(57点),B-6(48点),B-7(60点),B-8(66点),B-9(33点),B-10(34点),B-11(36点),B-12(65点),B-13(73点),B-14(51点),B-15(48点),B-16(68点),B-17(33点),B-18(37点),B-19(59点),B-20(51点)となり,合計937点である.なお,そのうち重複するタイトルは89である.テーマごとに巻がまとめられているために,重複文書は東京大学の5つの下位コレクションの中で一番多かった.
第3コレクションC(全12巻)
a) 外見的特徴liv
・仔牛革装
・表紙には,裏にも表にも装飾も文字もない.
・各巻の背表紙に「RECVEIL DE DIV. PIECES」.第1巻から第10巻までは「1649」,第11巻は「1651」,第12巻は「1652」と金字で刻印されている.全体の通し番号はない.
・背表紙「RECVEIL DE DIV. PIECES」の背景だけは赤で着色.
・背表紙の金箔模様は,17世紀のガスコン様式の花型に酷似しているlv.
・小口は朱赤に染められている.
・見返しは無地.
・遊び紙2枚.第1巻2枚目の遊び紙に次のような書き込みがある.書かれているとおりに再現してみた.
Cet ouvrage a appartenu au Cardinal
Dubois il a été pris a la Bastille par
M. Le Noir ancien Lieutenant de Police
qui en a fait cadeau a M.Gillebert.
・次に銅版画1枚.描かれている人物はシュヴルーズ公爵夫人と思われる.詳しくは次の「由来および特徴」で検討する.
・各巻の文書はタイトルのアルファベット順に並んでおり,区分ごとにそれぞれのアルファベットを大文字で中央(背景になる四角の中の装飾は文字によって異なる)にあしらい,楕円で囲み,さらにカーネーションのモチーフで取り囲んだ版画が挿入されている.この版画で使われているふち飾りのモチーフは18世紀の装飾パレットの様式に近い.
・蔵書印は,第11巻の最初の文書に押されたゴム印「BIBLIOTHÈQUE / de / Mr. COUSIN」がひとつだけである.このゴム印の下に何かが書かれていたか押されていたようだが,黒インクのペンで消されている.(同じゴム印が第11巻の,シュヴルーズ公爵夫人と思われる銅版画の横にも押されているが,こちらは黒インクのペンで消されている.そのそばにも,何かが消された痕跡がある.)
・第11巻の後ろの遊び紙に,目次(この巻の文書名とページ数)
・第12巻の後ろの遊び紙に,目次(この巻の文書名とページ数),肖像画の目次(人物名と入っている巻番号),最後にコレクション全体の構成(各巻の文書数,ページ数,肖像画の数)が記載されている.最後の全体の構成によれば,このコレクションは17巻(文書数1140点,肖像画75点)で完成していたことがわかる.詳細は,次の「由来および特徴」で記述する.
・第11巻,第12巻の手書き文字は18世紀の筆跡の特徴を示している.第1巻の遊び紙と,第11巻,第12巻の筆跡はおそらく同一人物ではないかと思われる.
b) 由来および特徴
装丁に使用されている革から,このコレクションが製本されたのは17世紀から18世紀末までの間,19世紀には入っていない.かなり幅が広いのだが,先に述べた外見的特徴からも,ふたつの世紀にまたがった特徴が多く見られる.背表紙の装飾は17世紀の様式に近い.挿入されている肖像画の作者,ジャン・ダレJean Daret(1604-1678)とルイ・ボワスヴァンLouis Boissevin(?-1685)は,ふたりとも17世紀中盤に活躍した有名な版画師である.前者の版画はコレクションBにも入っている.一方,アルファベットの文字をモチーフとした装飾の版画は18世紀的特徴を示す.手書きの文字は18世紀の筆跡だが,これは製本された後に書き入れられたものである.こうしたことからさらに時期を絞りこもうと思えば,17世紀末から,18世紀初頭というところであろうか.
このコレクションの特徴のひとつに,手書き文字の情報がある.第1巻の遊び紙に書き込まれている内容は,このコレクションの由来を明確に示している.「この製本された一揃いの文書は,デュボワ枢機卿の所有だった.それがバスティーユにて,元パリ警察長官ル・ノワール氏によって取得され,彼がジルベール氏に贈ったものである.」(« Cet ouvrage a appartenu au Cardinal Dubois il a été pris a la Bastille par M. Le Noir ancien Lieutenant de Police qui en a fait cadeau a M.Gillebert. »)
鍵となるのは,ここに出てくる「デュボワ枢機卿」「元パリ警察長官ル・ノワール氏」「ジルベール氏」という人名と,場所の名前「バスティーユ」であろう.
バスティーユとは,もともとパリ東部の守備のためにシャルル5世Charles V(在位1368-1380年)がつくらせた「砦」であった.シャルル5世の住まっていたサン‐ポールSaint Paulの館の防壁がなかったので,近くのサン‐タントワーヌ門に城砦をこしらえたのである.その後,国事犯などの収監される牢獄となり,フランス大革命で占拠されて,破壊されたことは,あまりに有名である.バスティーユは内乱のたびに襲撃を受ける場所だったので,〈フロンドの乱〉とも無縁ではない.前半の「高等法院のフロンド」では, 1649年1月に続々と加勢に参じた貴族たちが,真っ先にバスティーユを攻略し(1月13日),ほとんど無抵抗で占拠した.次に,後半の「大貴族のフロンド」では,もっと華々しい事件が起きる.1652年,7月2日,サン‐タントワーヌ門からパリ市内に入れず,そこで身動きがとれなくなっていたコンデ軍をパリへ入れるため,市内にいながらコンデ公の救助には及び腰のガストン・ドルレアンに代わって,娘のモンパンシエ公爵夫人がバスティーユから大砲を撃ち,国王軍を追い散らしたのである.しかし,なぜ,そのバスティーユにマザリナード文書のコレクションがあったのだろうか.
まず,最初に「所有者」とされている「デュボワ枢機卿」は,年代的にもっとも近い枢機卿として,ギヨーム・デュボワ Guillaume Dubois (1656-1723)に行き当たるlvi.この人物は,ルイ14世の没後,フィリップ・ドルレアン Philippe d’Orléans (1674-1723)の摂政時代にフランスの外交で活躍した.1721年に枢機卿,翌年には宰相になっている.アカデミー・フランセーズの会員でもあった.サン‐シモンLouis de Rouvroy, duc de Saint-Simon(1675-1755)の回想録などでも言及されている人物である.しかし,このコレクションが枢機卿のものであったとしても,なぜそこにあったのかはわからない.
一方,「元パリ警察長官ル・ノワール」とは,『パリ歴史事典』Dictionnaire de Paris にたびたび登場するJean Charles Pierre Le Noir (生没年不明)にちがいないlvii.この人物が警察長官職にあったのは,1774年8月から1775年5月にかけてと1776年6月から1785年8月にかけてである.遊び紙の書き込みには「元パリ警察長官ancien Lieutenant de Police」となっているので,これが書かれたのは,ル・ノワール氏がその職を離れていた1775年5月から翌年の5月か,1785年8月以降のことであろう.しかし,最後に出てくる,ル・ノワール氏からこのコレクションを贈られた「ジルベール氏」については,どのような人物か皆目わからないのである.
その次に名前が登場するのは第11巻にだけ押されている蔵書印の「クーザン氏Mr. COUSIN」である.この蔵書印は製本された直後に押されたとするには,時代が新しすぎるようである.「蔵書BIBLIOTHÈQUE」というからには,この「クーザン氏」にはほかにも所有する本があったはずなので,同じ押印のあるものがどこかで発見されるかもしれない.
さて,この第11巻と最後の第12巻は,このコレクションが本来もっていた姿を明らかにする.先に「外見的特徴」の項で述べたように,第12巻の後ろの遊び紙にはコレクション全体の構成(各巻の文書数,ページ数,肖像画の数)が記載されている.それによれば,このコレクションは本来「17巻(文書数1140点,肖像画75点)」で一揃いになっていなけらばならないのだ.しかしながら,じっさいは12巻である.どの巻が足りないのか.次にこの遊び紙の記載を再現し,各巻の文書数から見て,欠けていると思われる巻を網掛けで示してみたい.
Volvmes
pièces pages portraits
Tome 1er 63 576 p 2
2 67 660 v 2 (韻文)
3 105 995 p 9
4 75 868 v 1 (韻文)
5 72 880 p 7
6 79 935 p 9
7 73 802 p 7
8 64 907 v 1 (韻文)
9 87 1021 p 4
10 57 645 p 5
(ここまでがC-1からC-10巻で,1649年のもの)
11 52 756 p 6
12 59 583 v 3 (韻文?)
13 44 802 p 2
14 67 804 p 2
15 34 661 p 5 (C-11巻34文書「M」)
16 93 631 p 4
17 52 769 p 4 (C-12巻 52文書「I」)
dont 1140 pces 13295 pages 75 portraits
4 en vers
et 13 en prose
264 pièces de verslviii
876 de prose
1140
一巻の文書の数も一致するので,本当はC-11巻がこのコレクションの15巻目にあたり,C-12巻が17巻目で最終巻であったのはまちがいない.それによって,文書の年代も,C-10巻までが1649年で,その後,急に,C-11巻で1651年,C-12巻では1652年に飛んでいることや,きれいなアルファベット順配列にもかかわらず,C-11巻が唐突に「M」から,C-12巻は「I」から始まることの説明もつく.欠けているのは,本来の配列でいえば,11,12,13,14,16巻目に当たり,文書数にすれば315点である.全部揃っていれば,1140点となり,コレクションBをしのぐ文書があったはずだ.
このコレクションでは,文書の配列はひとつの巻の内部ではアルファベット順だが,韻文と散文は別々に製本されている.書き込みでは全17巻のうち,「4巻が韻文,13巻が散文」となっているが,現実には韻文は3巻(C-2,C- 4,C- 8)のみである.1140点の内訳として「韻文264点,散文876点」という書き込みが残されているので,この数字から失われた韻文の巻はおそらく本来の配列で12番目の巻だったと推定され,それはまたページ数の右に記された記号「p」,「v」によっても確かめられる.
このように,いったん成立したコレクションでも,その後分割されることは決してめずらしいことではない.すでにわたしたちはコレクションAにおいて,半分がロシアにあることを確認しているし,この後に見るコレクションEは製本が崩されて切り売りされた例である.デュボワ枢機卿の手から,ル・ノートル警察長官を経て,ジルベールなる人物の手に渡り,18世紀の「誰か」が詳細にこのコレクションの内容を調べ,最終巻の遊び紙に各巻の文書数や肖像画の数を手書きで記入したときには,このコレクションは17巻で構成されていたのだlix.
このコレクションのもうひとつの特徴は,コレクションBと同様に版画が入っていることである.版画の種類は,口絵,アルファベットの文字,肖像画の3種類である.肖像画は欠けた巻があるため,上記の記載より少なくなっており,全部で56枚.内訳はダレ28点,ボワスヴァン27点,ふたりの署名が一緒に入っているもの1点(第10巻のJean-François Paul de Gondy)である.第3巻では2枚の版画が切り取られ,失われている.
もっとも興味深いのは,口絵に使われているシュヴルーズ公爵夫人 Marie de Rohan, duchesse de Chevreuse (1600-1679)を描いた版画だろうlx.絵柄は男女ふたりの人物からなる.ギリシャ風の衣服をまとった女性は右側に立ち,掲げた右手に二種類の冠(ひとつは月桂樹)を,下げた左手には3本のペンを持っている.足元に一頭の羊がまとわりついている.一方,男性は床にひれ伏すように,画面の左方向に頭を向けて両手を床についている.手元の床には手かせ,目隠しをされた顔全体を覆うマスク,鎧の肩当,剣が置かれている.図柄の左手にステンドグラスに模して紋章を描いた窓があり,その図柄がシュヴルーズ夫人を指していると思われる.窓は公爵の王冠をいただいた紋章のかたちをしており,垂れ幕は表がロアン家の九つの菱形,裏がエルミーヌの毛皮になっている.窓のステンドグラスは右半分がロアン家の九つの菱形,左半分が複雑に組み合わさったロレーヌ‐シュヴルーズの紋章である.この紋章の中央から,女性に向かって三本の帯となった光が降りそそぐ構図になっているlxi.シュヴルーズ公爵夫人は〈フロンドの乱〉において重要な登場人物のひとりであるところから,こうした銅版画はたいへん興味深いlxii.
次に,内容に関する特徴だが,「編者」は文書を「アルファベット順」に並べている.この配列だと,ある文書への反駁や続編がかけ離れた場所に収められかねないものの,その点について,コレクションCの編者はゆき届いた配慮を行なっている.同一のテーマや互いに直接関係がある文書は,最初の文書につづけて配置しているからだ.たとえば,第3巻のLettre de monsieur le duc de Beaufort à monsieur le duc de Mercoeur son frère.(C-3-12, [2021])はボーフォール公の兄メルクール公Louis de Bourbon-Vendôme, duc de Mercoeur(1612-1669)とマザランの姪ロール・マンシーニ Laure Mancine (?-1656)との結婚が噂された1649年5月に出版されたものだ.この手紙は,「ボーフォール公の手紙Lettre de monsieur le duc de Beaufort」というタイトルだが,書いたのはボーフォール公ではない.この手紙への返信を装っているRéponse de Monsieur le duc de Mercoeur à la lettre de monsieur le duc de Beaufort.(C-3-13, [3408])も「書き手」は別にいる.この2点は第3巻で連番になっている.
同様にこの結婚話をきっかけにして書かれたものが,第8巻の33-35の文書,Le Poulet.(C-8-33, [2831]),La Sauce du poulet, par R. D. Q.(C-8-34, [3597])Salade en réponse à la Sauce du poulet, par B. B. G.(C-8-35, [3573])である.タイトルから判断すると,一見無害な料理本に見えるが,この鳥料理は結婚の宴席に供されるものであり,マザランの姪の結婚を揶揄しているのであるlxiii.さらにこの巻のRéponse à l’Outrecuidante présomption du cardinal Mazarin.(C-8-59, [3358])lxiv,そして第2巻のL’Antinopcier, ou le Blâme des noces de monsieur le duc de Mercoeur avec la nièce de Mazarin.(C-2-8, [93]),Entretien de monsieur le duc de Vendôme avec messieurs les ducs de Mercoeur et de Beaufort, ses enfants.(C-7-71, [1238])も同様であるlxv.この縁組の噂をめぐっては,およそ20種類の文書が印刷された.この縁談が注目されるにはそれだけの理由がある.既述のようにヴァンドーム家はアンリ4世の庶子の出であり,コンデ家に対抗意識をもっていた.そのヴァンドーム家がマザランに接近することは,コンデ家にしてみると,あまり好ましくない.コンデ家はこの結婚話をきっかけに反マザランの姿勢を強めていくことになるのであるlxvi.
ところで,この事件を〈フロンドの乱〉全体の流れに戻してみよう.1649年は1月に入ってすぐ〈パリ包囲〉となり,フロンド側の文書数はピークを迎え,そこから4月にむかって減ってゆく.つまり〈サン‐ジェルマンの和平〉によって,内乱は沈静化にむかうはずだったのである.しかしながら,些細なことをきっかけに,こうして文書が勢いを取り返すことがたびたびあった.そして,この時期から,「古いフロンド」ではなく,コンデ派のプロパガンダが急激に伸びてくるのである.それはちょうど1652年の次のピークを目指して増えつづける.メルクール公の縁談をめぐる文書は,ちょうど「古いフロンド」と「新しいフロンド」の間にあって,落ち込んでいくフロンド派の文書と入れ替わるようにして増え始めた,コンデ派の文書の典型といえようlxvii.
コレクションCの12巻を構成する最初の10巻が1649年,つまり前半のフロンドで文書数がピークに達する時期のものであるというのは,じつはたいへん興味深い. 1649年と1652年にあるふたつのピークは,今,述べたように,政治的状況も文書の性質もまったく異なっているからである. 1649年の文書の増加は,前年1月にパリ高等法院と宮廷の対立が〈バリケード〉事件に発展した際,フロンド派が市民を動員する政治的効果を知ったことによる.文書が有効であることを人々は体験したのである.〈バリケード〉事件では,パレ・ド・ジュスティスに集まる群衆の前では,何度も,裁決が読みあげられた.翌年,突然の国王の退去と同時にコンデ軍に包囲されたパリでは,「抗議の声」が文書となってうなぎのぼりに増えた.それらの文書は宮廷への批判だけでなく,包囲されているパリ市民の間に共感と連帯をうながした.たとえば,1月10日に出たContribution d’un bourgeois de Paris pour sa cottepart[sic] au secours de sa patrie.(C-1-37, [790])の語り手は,「パリの一ブルジョワ」を名乗り,「身分もなければ,武器をとる若さもない,それにほかの人のように人手を雇うだけの財力もない」.だが,彼が送り出す「兵士」は「武器といえば紙と鉛筆しかもっていない」けれども,きっと役に立つというのだ.8ページのこの文書は〈パリ包囲〉の最初のころに出た文書である.のちにノーデが『マスキュラ』でも言及しているlxviii.
片や,動員を期待されているパリ市民のほうでも,自ら財布を取り出して文書を買ったであろう.なぜなら,〈バリケード〉事件とは異なり,今度は理由もわからぬままパリの城壁内に閉じ込められることになったからだ.どんな「情報」でも買う価値はあったにちがいない.「クーリエcourrier」や「ガゼットgazette」,「ルラシオンrelation」といわれた「通信」,1649年には比較的少ないが「ジュルナルjournal」,あるいは「書簡lettre」である.コレクションCの第1巻に全12点がそろっているLe Courrier français, apportant toutes les nouvelles véritables de ce qui s’est passé depuis l’enlèvement du roi, tant à Paris qu’à Saint-Germain-en-Laye.(C-1-40, [830])は,〈パリ包囲〉の時期に週に一度出た定期刊行物で,たいへんな反響を呼んだところの,いわばフロンドの週刊新聞である.内容はほとんどパリの出来事に絞られている.〈パリ包囲〉の出来事が順を追ってわかり,同時代人の回想録や日記を補足するものとして重要だlxix.Le Courrier extraordinaire, apportant les nouvelles de la réception de messieurs les gens du roi à Saint-Germain-en-Laye et de celle du courrier d’Espagne au palais, avec les harangues qui ont été faites.(C-1-42, [827])は,その号外であるlxx.また,Le Courrier borderais apportant toutes les nouvelles de Bordeaux, tant dedans la ville que dehors.(C-1-44, [811])はボルドーの出来事を伝えているものの,パリで書かれたものであるlxxi.地方のニュースを扱っている「クーリエ」も,すべてパリで集められた情報をもとにパリで刷られていたのだlxxii.
「ガゼット」では,La Gazette de la place Maubert, ou Suite de la Gazette des halles, touchant les affaires du temps. Seconde Nouvelle.(C-4-22, [1469]),La Suite de la Gazette de la Place Maubert par l’auteur de la Gazette des Halles, touchant les affaires du temps.(C-4-23, [1470])が,俚語を使った対話形式で書かれている.これは最初に出たLa Gazette des halles, sur les affaires du temps, première nouvelle.([1470])とあわせて三部作になるものだが,最初の文書が欠けている.こうした俚語の使用をノーデは『マスキュラ』の中で「素朴さ」と評しているlxxiii.だが,それには「真実らしさ」を装う効果もある.また,このような対話形式は17世紀全般にしばしば見られ,『マスキュラ』自体が対話の形をとっている.キャリエが指摘するように,それは登場人物をより生き生きと自然に見せる効果があるlxxiv.しかし,それ以上に,「マスメディア」登場以前の,情報が人から人へと口頭であるいは手紙などで伝わっている社会においては,まるで他人の会話に耳をそばだてているような臨場感を与え,それによって内容に説得力を与えたのではないか.このLa Gazette de la place Maubert…は市場のおかみさんたちの会話になっているlxxv.
これらとは別に単発の Relation de ce qui s’est passé à Paris depuis l’enlèvement du roi jusqu’à présent, envoyée aux provinces.(C-9-25, [3117])のように,高等法院の命令(1月6日から2月5日まで)がまとめて出版されているものや,「書簡」ではLettre d’un secrétaire de S. Innocent à Jules Mazarin.(C-3-90, [1896])のように豊富な逸話を伝えるものや,Lettre du capitaine Latour contenant la réfutation des calomnies imposées au parti du Parlement et de la ville de Paris.(C-3-48, [2083])のように考え方を示唆するものもある.これらは同時代人ノーデが「良質の文書」と認めるものだlxxvi.
ところで,こうした印刷物の消費に関して,つねに問題にされるのは当時の識字率である.いくら情報があっても文字を読めなければ何の役にもたたない.しかし,「識字率」には次の理由で慎重にならざるをえない.ひとつにはその調査方法である.役所に残された署名を用いる方法は,〈パリ・コミューン〉(1871年)の市庁舎の火災により資料が失われてしまっている.当時のパリの「識字率」を知る十分な根拠はないのである.さらにもっと深刻なのは,署名では,人々がどの程度「日常的に読む行為」をしていたかどうかまでは知ることができないことである.文字で署名ができなかった人が,印刷物の情報にまったく接触しなかったということはできない.「マザリナード文書」をめぐっては,つねに識字率の問題が浮上してくるが,単純に数字だけを問題にするのは無意味なことである.
では,〈フロンドの乱〉のころに,じっさい,読み書き能力がどの程度であったかというと,アンリ‐ジャン・マルタンは,17世紀前半では「職業的に必要とした人」に限られ,親方ともなればもっとほかにも必要に迫られるし,商人ならば当然,読み書きそろばんはできなければならなかったろうが,「日銭稼ぎの労働者や召使,職人のほとんどがもつ(読み書きの)知識は,ふつう,せいぜい自分の名前を書けたり,短い文を解読したり,懐勘定をするのがやっとだった」というlxxvii.これに対しキャリエは,パリの住民に限っていえば,この意見はやや悲観的すぎるとする.16世紀以降,反宗教改革のおかげで教区の学校が大きく前進し,壁に貼り出される王令や,税金の布告,競り売りなどによって,パリの住民は日常的に文字に触れる機会が多かったからであるlxxviii.教区の学校の成果に関して,「すべての子どもたちが教育を受けられたわけではない」とアンリ‐ジャン・マルタンは否定的だが,こうした「貼り紙」に関しては,マルタン自身が言及しているのだから,文字テクストが日常生活の必需品であったのはまちがいないlxxix.問題は,そうした貼り紙などが「どのように読まれていたか」ではないだろうか.
たとえば,今日でも,移民の多いフランスでは,市場で見知らぬ人に「そこになんて書いてあるのか」と聞かれることがある.「大きい鶏の丸焼きがいくらいくら,小さい方がいくら,香草で焼いてあればいくら...」などと「読んで」いると,いつの間にか人垣ができていて驚かされる.いろいろな肌の人がいて,みな大人である.しかし,「聞く」方は真剣なのだ.17世紀のパリで,市場や壁の貼り紙を前にした人々も同様に「聞いた」のではないか.それは自分たちの生活に影響する王令かもしれないし,新しい税金の布告かもしれない.自分が読めなくても,読める人がそばにいればことは足りる.直接文字を目で拾わなくとも,人々は「読める」のだ.
現代における読む行為が,きわめて個別的であることから,わたしたちは見落としがちだが,テクストは声によって再生されることにより「一緒に読む」ことも可能なのである.17世紀には朗読による「集団的読書」も行われていたがlxxx,それだけでなく,文字を知らない人が多い社会では,むしろ日常的に「読む行為」が集団で行われているのではないだろうか.「読む行為」それ自体を,複数の人による行為であるという見方をすれば,アンリ‐ジャン・マルタンがいう「短い文を解読したり,懐勘定をするのがやっとだった」人たちも,いや自分の名前さえかけない人たちも,みんな「読んでいた」のである.
キャリエはこの読み書き能力の問題に対しても,「マザリナード文書」がいくつかの重要な検討材料を提供するという.ひとつにはその量である.法服貴族や裕福なブルジョワだけではこれだけ多くの印刷物を消費しきれないlxxxi.だが,そもそも「読む」ことが個人に属する行為でなかったなら,文字が読めなくても,誰かに読んでもらうために,呼び売りから買うことも十分にありうるのである.市場で檄文を拾って持ち帰ることも同様だ.キャリエが,同時代人の証言で補強しつつ,パリのほとんどの住民が〈フロンドの乱〉の時期にはおそらく「読めた」だろうというとき,こうした「読み方」についてはいくら強調してもしすぎることはないと思われるlxxxii.
当時壁に貼られた文書がそのまま残っていることは少ないが,コレクションBで見たように,後から印刷されて今日に伝わるものもあるlxxxiii.歌もまた,印刷された.Recueil général de toutes les chansons mazarinistes, avec plusieurs qui n’ont point été chantées.(C-8-44, [3055])が「まったく歌われていないavec plusieurs qui n’ont point été chantées」ものも含むということは,「読んで」から歌うことになるのか.字のまったく読めない人であっても,歌であれば,テクストを記憶に取り込んで繰り返し「読み直す」ことができる.旋律,あるいは韻が記憶を支えるので,印刷物の内容は文字を知らない人々まで伝わっていく.じっさい「マザリナード文書」といわれるものには韻文が多い.散文で出版されたものが韻文に直されて再版されることもしばしばあるのだ.先に見たLe Courrier français(C-1-40, [830])12点の韻文訳Le Premier courrier français, traduit fidèlement en vers burlesques.は全部,第2巻に見つかる(C-2-42, [2848]).モローはこれを「散文よりおもしろい」というが,ほぼ同じ内容である.おまけに,韻文の「ビュルレスク」という鋳型に入れた方が, 2倍も高く売れたということであるlxxxiv.
コレクションCのうち3つの巻は韻文だけで編集されているが,事実その中にはタイトルに「ビュルレスクburlesque」を含むものが多く見つかる.これらの文書は,1649年の〈パリ包囲〉の時期に,印刷物から情報を入手する一方で,人々が厳しい現実を笑いに変えて生き抜こうとしたことのあらわれである.ちょうどこのとき,文芸では古典をパロディ化したスカロンの『変身ウエルギリウス』の第1巻が大成功をおさめていた. L’Enfer burlesque, ou le sixième livre de l’Eneïde travestie et dédiée à mademoiselle de Chevreuse, le tout accomodé à l’histoire du temps.(C-4-3, [1216])の作者は,明らかにその流行を意識している.本文に添えられたウエルギリウス宛の献辞に加え,「読者諸兄へAvis au lecteur」ではスカロンを名指して挑戦する.しかも手書き原稿を友人が勝手に持ち出して印刷してしまいましたという「常套手段」を使って,舌禍の責任は逃れようというのである. Le Cours de la Reine ou Promenoir des Parisiens(C-2-43, [836])は女性の美醜について取りあげつつ,王太后を中傷するが,ここにも『変身ウエルギリウス』への目配せが見られる.美貌であったカルタゴの女王ディードーを茶化しているのだlxxxv.愚弄されるのは王太后やマザランばかりではない.Au Prince du sang surnommé la cuirasse.(C-8-36, [432])は,コンデ公の出生について「王族だから,13ヶ月かかって生まれても平気」とあたかも不義の子のようにほのめかす.
もっと社会性を追求したビュルレスク作品として,6部作のLe premier babillard du temps, en vers burlesques(C-2-15, [556])がある.この作者に対するノーデの評価は「週1ピストルでこき使われる3文文士」lxxxviと低いのだが,題名の示すとおり時事問題が満載されている.ラ・モット・ウーダンクール,ボーフォール,ブルーセルらの名前をあげ,高等法院の集会に言及し,コンデ公の兵士たちが市中ではたらく乱暴狼藉を糾弾し,ボーフォール公への絶大な信頼を表す.そしてパンの値段が高騰していること,高等法院がパン屋に対して命令を出したことなど,内戦で圧迫される市民の生活を訴える.La guerre civile en vers burlesques.(C-4-29, [1522])は,詩神への呼びかけは省き,もっぱら笑いのために,大人の読者を満足させるために書いたと説明し,内戦の悲惨を語り始める.Le Rabais du pain, en vers burlesques.(C-8-40, [2957])はパリについて,王妃について語るものの,そこに後半のフロンドのビュルレスクのような「毒」はない.
第8巻は特にビュルレスク作品が集まっており,人気のスカロン作品Le Passeport et l’Adieu de Mazarin, en vers burlesques.(C-8-20, [2730])もある.この文書は3月初めに,マザランへの抗議の声がいよいよ高まる中で出版された.さらに,ノーデとモローが〈フロンドの乱〉のもっとも機知に富んで楽しい文書だと評価するL’Agréable récit de ce qui s’est passé aux dernières barricades de Paris.(C-8-42, [56])が見つかる.作者ヴェルドゥロンヌ Claude de L’Aubespine, baron de Verderonne (生没年不明)は同名の父(国璽尚書 Garde des Sceauxをつとめた)の方が有名だが,自身はガストン・ドルレアンの郎党であり,職業的作家ではなかったlxxxvii.内容は1648年の〈バリケード〉事件で,宮廷の側から高等法院やパリ市民をからかっている.軽妙で陰湿なところがない.手書きで回覧されていたものが1649年に印刷された.ノーデによれば,このスタイルをお手本にした作品が多数生まれたようだが,そのなかにLes Heureux Convois arrivés à Paris ou le remède à la famine, en vers burlesques.(C-4-32, [1633]),Le Passetemps de Villejuif, en vers burlesques.(C-8-21, [2731]), Récit véritable de ce qui s’est passé aux barricades de l’année 1588, depuis le 7e mai jusqu’au 1er juin ensuivant, décrites en vers burlesques.(C-8-41, [3009]),Le Nocturne Enlèvement du Roi hors de Paris, fait par le cardinal Mazarin, la nuit des Rois, en vers burlesques.(C-4-4, [2530])などもあげられるlxxxviii.
ヴェルドゥロンヌのほかにも,ビュルレスクの最盛期の作者として,キャリエが名前をあげている作家――スカロン,シラノ,サン‐ジュリアン,ジャン‐デュヴァル,ラベ・ド・ラフマ――の作品は,かならずひとつは,このコレクションCで見つかるlxxxix.すでにスカロン,ヴェルドゥロンヌの作品については触れたとおりだ.たとえば,シラノ・ド・ベルジュラック Savinien de Cyrano de Bergerac (1619-1655)は〈フロンドの乱〉に関わる文書を7-8点出している.その中の1点であるLe Ministre d’État flambé. Ridendo dicere verum quid vetat? (C-4-58, [2470])はノーデが〈パリ包囲〉の時期のもっとも優れたビュルレスクのひとつとしている反マザラン文書だxc.スカロンの『ラ・マザリナード』に先立って,人民裁判的な処刑場面を描くxci.サン‐ジュリアン Saint-Julien(生没年不明)は,先にあげたLe Courrier français(C-1-40, [830])を,韻文Le Premier courrier français, traduit fidèlement en vers burlesques. (C-2-42, [2848])に書き直している.自称職業詩人の彼であるが,作品はあまりない.ボーフォール公の一派であるアリュイ侯に仕えていたので,最初はフロンド側にいたが,1650年にはCourrier burlesque de la guerre de Paris.(A-9-9, D-1-14, [814])を出し,反コンデとなる. 彼のCourrierにはそうした政治的立場の変化がよくあらわれているxcii. ジャン‐デュヴァル Jean Duval(?-1680)は,サン‐ジュリアンよりももっと知られていない.カトリックの司祭であった.諷刺の才能に恵まれていたことを示すそのわずかな痕跡が1649年のTriolets du temps.(E-44, [3859])とSoupirs français sur la paix italienne.(C-2-55, [3710]),そして1652年のParlement burlesque de Pontoise, contenant les noms de tous les présidents et conseillers rénégats qui composent ledit Parlement, ensemble les harangues burlesques faites par le prétendu premier président.(C-12-38, [2701])であるxciii. 最後に,ラベ・ド・ラフマ L’abbé, Laurent de Laffemas (生没年不明)の場合,大法官を父にもち,反マザランの文書を9つ残しているxciv. Procès burlesque entre monsieur le Prince et madame la duchesse d’Aiguillon, avec les plaidoiries, par le S. D. S. M.(C-8-37, [2884]),Plainte du Carnaval et de la foire Saint-Germain, en vers burlesques.(C-8-28, [2794]),先に触れたL’Enfer burlesque ou le Sixième de l’Énéide travestie.(C-4-3, [1216]),La guerre civile en vers burlesques.(C-4-29, [1522]),そしてLe Rabais du pain, en vers burlesques.(C-8-40, [2957])等である.
こうしたビュルレスク作品の最盛期をキャリエは1649年の〈パリ包囲〉から8月の王の帰還までとし,その間に質・量ともに文字通り頂点に達するのが,リュエイユの交渉から〈サン‐ジェルマンの和平〉までの間,すなわち3月頃であるとする.
コレクションCがもつ1649年の韻文だけの3巻は,それだけで200点あまりになりひとつの下位コレクションに相当する.じつに多様な面を見せるコレクションだが,とりわけ前半のフロンドのビュルレスクの特徴をよくあらわしている.最後に,いかにも1649年らしい,内乱にあってもこんなことが書かれていたのかと思われる一編を紹介してコレクションCを締めくくろう.それはCavalier d’outremer.(C-2-26, [660])という12ページの文書だ.道連れになった諸国遍歴の騎士と農民の対話である.騎士はフランスに着いたばかりで,農民に土地の事情を尋ねる.戦争のことは聞いているが「そなたたちを苦しめるマザランなるものについて教えてくれ」というのである.悪徳の権化であると農民が語ると,騎士は驚きながらも「自分が日本で見た本当の話だ」といって,王を育ててた男が,国の富を独り占めにして王位を奪うけれども,怒った民衆に殺されたという悲劇を物語る.祖国の窮状を訴える農民.義憤を感じた騎士は目にもの見せてくれるわと大見得を切る.まるで歌舞伎のような一編である.
第3コレクションCの総文書数であるが,手書きの数字とは,少し違う結果が得られた. C-1(65点),C-2(71点),C-3(107点),C-4(75点),C-5(76点),C-6(81点),C-7(75点),C-8(66点),C-9(88点),C-10(57点),C-11(34点),C-12(52点)となり,合計は847点である.第7巻の21番から29番が欠けている(カタログにも記載がないし,該当する文書もない).一方,連続ものの「クーリエ」などをまとめずに一点一点計算した.また,東京大学の目録に記載されていなかった文書(C-5-0, C-5-53a, C-5-54a, C-9-0, C-10-40bis, C-12-35bis)などを数えていくと手書きの数字の合計よりも,結果的に増えることになる.このうちコレクション内で重複するタイトルは9つときわめて少ない.またモローの『目録』に記載のないとされる文書は32点あるが,ほとんどは『目録』かマザリーヌ図書館にすでに記載されているのが確認された.特別に新しい発見はない.
第4コレクションD(全2巻)
a) 外見的特徴xcv
・羊皮紙装
・仔牛やモロッコ皮で装丁されている他のコレクションに比べると,もっとも簡素な製本である.表側にも内側にもまったく装飾は見られない.
・背バンドもない.
・背表紙に手書き,インクの文字で「Recueil de pièces sur l’histoire de Louis XIII et Louis XIV / 1ère Partie / Mazarinades」と書かれている.(第2巻は同じタイトルで「2e Partie」)最後の「Mazarinades」の筆跡だけが,後から付け加えられたものかどうかの疑問を残す.
・遊び紙の上に手書きで「Recueil de plusieurs / pièces servans à l’histoire.」その下に線が引かれている.その右上に鉛筆で「S 752」とあり, 下線を引いてその下に「2600」.
・次に手書きの目次の「Table des pièces contenues au present Recueil」が来る.
・第1巻には肖像画なし.第2巻には5枚.
・右ページ右肩に通し番号.もともと印刷されていたページ番号を消して書いている.ただし,もとのページ番号が右肩に印刷されていない場合は消していない.
b) 由来と特徴
使用されている羊皮紙の状態,および手書き文字の書体から,おそらく17世紀に製本されたものと思われる.このコレクションの中ではもっとも古い装丁になるだろう.しかし,所有者を示す表徴はない.第1巻目の最初の文書の表紙に文字の書き込みがあるが,横線で消されていて,3つの単語のうち,始めの「Charpentier」は何とか読めるがその後が,はっきりしないのである.残念だが,これだけでは何の解明にもならない.
しかしながら,このコレクションDの「モローの『目録』に記載されていない」とされる17点のうちに,今回の調査で,きわめてめずらしい文書が発見された.これらはオルレアンに深く関わる文書で,このコレクションの特徴である.わたしたちはそれらの文書からコレクションの由来に接近することができるだろう.
問題の17点の中で,モローの『目録』と照合して,すでに記載されているものはわずかに1点だった.D-1-20 Avis sur le Gouvernement de l’Estat. (1650) は,モローの2番目の増補[36]に記載されていて,それほどめずらしくはないものだ.しかし,製本時の手違いで,別の文書(D-1-34)の後半部が4ページ最後に紛れ込んでしまい,本来8ページのものが12ページになっていた.
D-1-26 Propositions et les motifs resentez à nostre saint pere le pape Innocent X.…(1650)もマザリーヌ図書館で同じ文書が見つかった(M12054).同様に,D-2-25 Dialogue d’Ingré sur les affaires du temps. (S. l., 1649, 4 p.)もマザリーヌ図書館のカタログに記載されているが(M10832),キャリエの著作によると,たいへんめずらしいものだというxcvi.まず,この文書は,これまでマザリーヌ図書館に1点しか存在が確認されていなかった.オルレアンで最初に出版されたこともまた希少だということである.確かにマザリナード文書のほとんどはパリで印刷されたものなのである.モローの『目録』に出ている [1078] Dialogue de deux guepeins sur les affaires du temps. (S. l., 1649, 7 p. )は,この文書がパリで再版されたものだxcvii.意外に人気があった文書のようで,パリでは1652年Dialogue guépinois sur les affaires du temps, ou entretien de Louet et Brase.([1093])というタイトルで再版されている.絶対的に数が少ない地方発のマザリナードだということのほかに,キャリエによれば,この文書は歴史的にも,書かれて残っている最後のオルレアン方言のテクストであるということだ.Ingréというのはオルレアン近郊の村である. Loüet とBraseが「おらが村さの」言葉で挨拶する冒頭の出会いだけを引用してみたい.方言の音のニュアンスだけでも伝えられるかもしれない.
Loüet HA, ha, ha, Dieu te gare mon cousin Brase.
Brase Ho, ho, bon iordon mon cousin Loüet,
Mordié que ie te voy le vesage chagrigneux & maussade.
Asseuzément que tu as quioque dafficuté dans ton intesieur
Iarmidié ie cray bian, car tot est pardu.
残りの14点は,モローにも,ダルトワにも記載されていない.それだけでは新発見といえないのだが,中には,このD-2-25と同様,希少なテクストが見つかった.
D-2-23 Dialogve d’vn Batelier, d’vn Vigneron, et d’vn Savetier. Sur les affaires du temps present. Mouslé cõme tres vray, dans vne touë contre vn Chalan sous la grande vois entre midy & la Croix vert. 1650. (S. l. n. d., 8 p.)は,キャリエの著書がマザリナードと騎士道物語の関連について紹介した箇所に引用されている.しかし,現在閲覧できるのは英国のブリティッシュ・ライブラリー にある一点だけなのであるxcviii.
D-2-45 Harangve et Remerciement fait au Roy par les Bordelois, sur le sujet de la paix. Avec ses Articles.1650 (S. l., 1650, 4 p.)はオルレアンの図書館に1点だけ記録がある.
D-1-66 Récit véritable de ce qui s’est passé au Chasteau du Louvre à Paris, par l’ordre de leurs Majestez, envers la personne du Cardinal de Retz, au sujet de la Paix. (Orléans, 1652, 8 p.)は,とりわけ貴重である.出版地であるオルレアンにも残っていない新発見のマザリナードなのである.この文書に関しては,新発見の可能性が出てきた段階で,D-1-66のコピーをフランスに送り,現在準備中のキャリエの「総合目録」とつきあわせて,まだどこにも記載がないことが確認されている.
D-1-46 Arrest dv Parlement de Bordeaux sur la retraite de Monsieur le Prince. (S. l. n. d. 4 p.)は,最後の署名と一緒に記された日付によれば,1651年7月13日にボルドーで書かれたものである.D-1-66と同様に,フランスへコピーを送ったが,これも記録がない.したがってこれも新発見といえるだろう.
以上は,コレクションDの文書のうち,「モローに記載がない」とされていた16点の調査結果で,明らかになった事柄だ.ところが,コレクションDに関しては,モローの『目録』に載っているとされている文書の中にも,いくつか疑問のあるものが出てきた(D-1-8,D-1-52,D-1-56,D-1-59,D-1-64, D-2-40).これらはまだ調査の段階だが,少なくともにD-1-8,D-1-52,D-1-59,D-2-40は,既述のD-2-25,D-2-45,D-1-66と同様に,オルレアンのマザリナードである.この4点は印刷業者(Gilles Hotot)も一緒である.この4点の特徴を以下に簡単にまとめておきたい.
D-1-8はモローの[3685] Sommaire des articles de la paix générale entre l’Empire et la France (traité de Munster).のタイトルとほぼ同一なのだが,タイトルの一部 (traité de Munster) がない.出版地も,モローではパリになっている.ページ数は同じで, [3685]の異版であるのは確かなようだ.この文書には,もうひとつ大きな特徴があり,出版が1648年になっていることだ.この年の文書がそもそもひじょうに少ないため,地方で印刷されたものは,さらに少ないはずだ.それゆえに希少性が高いと思われる.
D-1-52はモローの[906] Déclaration du roi contre les princes de Condé, Conty, et duchesse de Longueville, les ducs de Nemours et de La Rochefoucault, et autres leurs adhérents qui les ont suivis, vérifiée en Parlement, le 5 décembre 1651.と同じタイトルの文書だが,出版地が異なるのである.モローの[906]とタイトルが一致し,パリで出版されている文書は,いろいろな版形があって,たとえば,東京大学コレクションB-6-25は活字の小さい8ページの印刷である.マザリーヌ図書館のカタログにも異なる版が数種類見つかる.その中にイタリア版はあるのだが,オルレアン版はない.
D-1-59は,東京大学のコレクションに元々ついていたカタログでは,モローの La Réponse du roi à messieurs les députés (du Parlement), contenant la résolution de Sa Majesté pour l’éloignement du cardinal Mazarin, et le sujet de leur détention à la cour. (Paris, 1652, 8 p.)[3433]であるとなっているが,これは錯誤であろう.一致するのはページ数だけで,タイトルも出版地も完全に異なる.D-1-59のタイトルは La Réponce [sic] dv Roy, à Messieurs les Députez du Parlement de Paris, pour asseurer le Traité de la Paix et de la Ville. 印刷地はオルレアン,出版年はない.出版者はGilles Hotot,オルレアンの印刷業者imprimeur du Roiである.このタイトルはマザリーヌ図書館にも記録がなく,新発見の可能性は高い.
D-2-40 はモローの[277] Arrêt de la cour de parlement, toutes les chambres assemblées, portant renvoi et décharge de l’accusation contre Messieurs de Vendôme, duc de Beaufort, Gondy, coadjuteur, Broussel et Chareton [sic]. Du 22 janvier 1650. (Paris, 1650, 4 p.)と同じタイトルだが,出版地が異なる.モローと同じパリの印刷はコレクションAにあるが(A-9-35).以上の4点がオルレアンのマザリナードである.
また,「モローに記載されている」として扱われている文書の中でも,D-1-56(モローの記載と微妙に異なる文書)とD-1-64(東京大学の元のカタログの錯誤で,モローにあるとされているもの)は目録の訂正が必要だった.
D-1-56は東京大学の目録で,モローの[2008] Lettre de monseigneur le prince de Condé écrite à Son Altesse Royale. (Paris, 1651, 8 p.)であるとされているが,タイトルをはじめ,いくつか異なる点がある.D-1-56のタイトルは長く,さらに「sur le sujet de la Paix. Ensemble les trahisons du Cardinal Mazarin découvertes par ledit Prince de Condé」とつづく.出版地はパリで同じだが,印刷業者は,モローがニコラ・ヴィヴネ Nicolas Vivenay,D-1-56がジャン・ギユモ未亡人 la Vefve Jean Guillemot.出版年もモローは1651年であるが,D-1-56は1652年である.ページ数はモローより少ない4ページだ.日付がモローでは10月31日,D-1-56は1651年12月29日.D-1-56と同様の特徴をもつ文書は,ダルトワのカタログにもない.内容の照合が済んでいないので断定できないが,印刷者名から次のような推測ができる.ヴィヴネは1651年以降,コンデ公のおかかえ印刷業者として,コンデの「手紙」と示威文書の印刷に専念しているxcix.そして一方,ギユモ未亡人は1652年1月のオルレアン公とコンデ派の結託以来,リュクサンブール宮でパリ高等法院の裁決や地方から届く知らせなどのほとんどを印刷しているc.この時期にコンデ公の印刷物の一部がリュクサンブール宮で再版されたことも十分に考えられることなのだ.
最後に,D-1-64は東京大学の元のカタログで,モローの[879] Déclaration de messieurs les princes, faite en parlement, toutes les chambres assemblées, chambre des Comptes, cour des Aydes et Hôtel de Ville, le 22 août 1652, touchant la sortie du cardinal Mazarin hors du royaume, avec l’Arrêt dudit parlement donné le même jour. (Paris, 1652, 7 p.)であるとされているが,これは誤りである.D-1-64のタイトルはDéclaration des Princes qui ont les armes à la main contre le Roy, faite aux Officiers des Compagnies restées à Paris. 出版地はコンピエーニュ,1652年,4ページである.類似の文書はマザリーヌ図書館のカタログにも見つからない.他の図書館にないとは断言できないが,マザリーヌ図書館に記録がないということは,やはりめずらしいことである.
以上がコレクションDに関する発見であり,特徴である.そしてこの特徴はこのコレクションがオルレアンで蒐集されたことをほぼ確実に示している.とりわけその重要な根拠となるのが,最初にあげた3点の文書(D-1-66, D-2-23, D-2-25)であるci.
ところで,このコレクションの背表紙のタイトルは「ルイ13世と14世の歴史の理解に役立つ文書の集成 / 第1部 / マザリナード文書 Recueil de pièces sur l’histoire de Louis XIII et Louis XIV / 1ère Partie / Mazarinades」である(第2巻は同じタイトルで「第2部2e Partie」).「マザリナード」という表題をあたえながら,「ルイ13世からルイ14世の歴史に関する文書」といっているのが,わたしたちには奇妙に見える.コレクション第1巻の最初の7点は,1637年から1646年までの文書で,内容は,ルイ13世,その母マリー・ド・メディシス,リシュリュー枢機卿などに関するもの,そしてマザランとアンヌ・ドートリッシュに関するもので,希少な文書が多数含まれているからだ.これらの文書を集めた人物がどのような人かはわからないが,17世紀の末までにこの2巻を製本させたことから,〈フロンドの乱〉の同時代人に近いと思われる.そしてオルレアンにいた可能性が強い.この人物にとって,17世紀とはふたりの国王(ルイ13世と14世),ふたりの摂政,ふたりの宰相によって特徴づけられる動乱の時代だったのであろう.そして,これらの文書を束ねて,製本させ,さらに遊び紙の上に「ルイ13世と14世の歴史理解に役立つ文書の集成」と書きつけた.その筆跡は同じだ.少なくとも,この人物にとって,それらの文書は,まず何よりも「歴史の証言」として保管されていたのだろう.しかし,背表紙のタイトルの一番最後に,行を替えて書き込まれている「Mazarinades」は,この同じ人物が書いたものだろうか? 確証がもてない.インクの退色の様子はほとんど同じに見えるのだが,この部分はわずかながら,筆跡が異なるようにも思われるからである.これが,後に書き込まれたものなら,「マザリナード文書」というものの成立を象徴的に物語っている.「〈フロンドの乱〉の頃の文書」をまとめたその束を,後から「マザリナード文書」と呼んだということである.
コレクションDの文書数は,D-1(68点),D-2(46点)となり,合計は114点.重複があるのは1点のみで,モローの『目録』に記載されていないとされる文書は17点ある.そのうち『目録』に記載のあったものは1点に(D-1-20)とどまった.マザリーヌ図書館のカタログに記録が残っているものは2点(D-1-26, D-2-25).「モローに記載がない」という意味では,残りの15点すべてが,「未記載」ということになる.他のコレクションと比べると,たいへんめずらしいものがそろっていることになる.その内訳は,現存する文書が1-3点ときわめて数が少ないものが2点(D-2-23, D-2-25, D-2-45),現時点でどこにも記録がないという意味での「新発見」といえるものが2点(D-1-46, D-1-66)確認された.さらに,「モローの『目録』に記載されている」あるいは「記載されているとされていた」文書の中にも,おそらくほかで見つかっていないものが発見された.そのうち,モローの記述した文書の「異版」であろうと推定されるものが5点.パリで出版されたD-1-56をのぞくと,残り(D-1-8,D-1-52, D-1-59, D-2-40)はオルレアンの印刷業者から出版されている.さらに,モローの記述にはまったく該当しない文書が1点(D-1-64)あった.これらは今後も引き続き調査が必要になろう.
第5コレクションE(全1巻)
a) 外見的特徴cii
・未製本(桐箱入り)
・130ほどの文書を4分割して束ねてある.
・束によって帯や紙片に次のような書き込みがある.それらの筆跡はかならずしも一致しない.[ ]など,そのままに転写すると,このようになる.
mazarinades [collection] inscrites dans le cahier vert(インク)
non inscrites ou inconnues(赤インク)
Duplicates [Supplement !](鉛筆)
・単体で薄青色の紙の表紙がつけられているものもある.
・ある程度まとまった量で,重ねると綴じ紐の跡が一致するものがある.
・右肩に連続して通し番号のようなものが振られているものがある.
・右肩の番号に加えて,左肩にも通し番号や記号がつけられているものがある.
・その他,さまざまな小さい書き込みが見つかる.
b) 由来と特徴
コレクションEの状態が指し示すのは,これらの文書が,大きくふたつの経路でこの箱に行き着いたということである.ひとつは,最初からつねに単体であつかわれていたもの,もうひとつは,一度は製本されたことがあるもの,である.前者の中には,まったく人の手が加えられていないもののほかに,青い表紙をもつものが9点含まれる(E-21, 38, 39, 57, 58, 70, 78, 127, 128).何も書かれていない青い表紙の紙は,17世紀頃からトロワで作られていた「青表紙本」に似ている.ときどき表紙に「Mazarinades」「Mazarine(このあとに不明の文字があって,数字がつづく (8) 1649))」などと黒インクで書かれている.また,右肩に600番台の数字が印刷された小さな白い紙がついていたり,鉛筆で20-30番台の数字が大きく手書きされていたりする.これらの痕跡から,青い表紙のついた文書も,やはりいずれかの場所で複数の人の手によって整理されたと考えられる.
そのほかにもコレクションEの文書にはいろいろな書き込みが見つかる.連番はページ数のようであり,記号は整理番号のように見える.それはインクであったり,鉛筆であったり,赤鉛筆であったりする.書き込みは一種のものもあれば,同時に複数の場合もある.それらの文字の筆跡には17世紀ごろの特徴をあらわすものがいくつかある.
そうした中で,右肩に連番(200から300までの間)をもち,さらに重ね合わせてみると綴じ紐の跡が一致するものがある(E-1-20,E-88-114,ただし,E-113を除く).である.これらの文書はおそらく合本が崩されたものにちがいない.同様に左肩に同じ記号(D.XIII)と番号(たとえばD.98など)の組み合わせ,右肩に「d. r」の記号をもつのがある(E-59, 62, 65, 67, 69, 80, 81, 126).
すでに,コレクションAで,コレクションが分割される例を見た.またコレクションCでは一部の巻が不規則に抜けていた.「マザリナード文書」の場合,さらに細かく製本を崩して売られることがあるが,コレクションEはまさにその例である.とくに連番や記号だけでなく,上記のように綴じ紐の跡まで一致するものは確実に一緒に装丁されていたはずだ.しかしながら,製本を壊される前のかたちを知るのは不可能である.
さて,内容だが,コレクションDではオルレアンの印刷業者が出版した文書が多数見つかったのに対し,コレクションEではルーアンの印刷業者が出版したものが8点見つかった.しかし,東京大学総合図書館の元のカタログを参照する限り,コレクションEにおけるルーアンのマザリナードは,3点しか出てこない.
その3点のうち,E-41 La Tarentèle écrasée, ou l’Imprécation de l’impie Mazarin. (Rouen, 1649. [3750])はルーアンでのみ出版されたか,ルーアンで最初に出版されたと考えられるciii.そしてE-91 L’Entretien familier du roi et de la reine régente, sa mère, sur les affaires du temps. (Rouen, 1649, 12 p.)も,E-41と同様に,ルーアンで初版が印刷されたものだciv.
もうひとつはE-39で,これは「モローの『目録』に載っていない」とされているので,タイトルをはじめとする書誌情報が元のカタログにはタイプで転写されていて,その出版地がルーアンとある.E-39 La sanglante dispute entre le Cardinal Mazarin & l’Abbé de la Rivière. Le Visage de Bois au Nez du Mazarin, & son exclusion de la Conférence de Rueil et la Supplication faite au Roi pour avancer le procez des partisans & Financiers. (Rouen : Robert Daré, 1649, 12 p.) cv.
じつは,モローの『目録』は,地方で出版されたり,再版された文書に関して弱いところがあり,しばしば,パリで印刷された版の書誌情報しか記載されていない.東京大学の元のカタログでは,おそらくその文書のじっさいの出版地を確認したり,訂正したりしていないので,そうしたモローの記述と一致する文書でも,出版された場所がちがう場合が少なくない.そうした事情で,コレクションEには,実物には出版地として,ルーアンと印刷されている文書がこのほかにも4点,明示されていないが,ほかの根拠により,ルーアンの文書であると考えられるものが1点で,さらに合計5点あることが,今回,見つかった.
まず,はっきりそれと実物の印刷でわかるものは,E-38 Relation fidèle de ce qui s’est passé de plus remarquable au Parlement depuis le 10 février 1649 jusques au premier de Mars ensuivant. (Rouen, Chez David du Petit Val et Jean Viret, 1649, 12 p.) モローの [3170]と一部タイトル(モローは後半が「jusques à la fin du mois, envoyée aux provinces」)などは異なるが,同じ文書のルーアン版である.
E-57 La Fureur des Normands contre les mazarinistes. (Rouen : Jacque Besongne, 1649, 16 p.)モローの[1460]と同じ文書だが,モローでは出版地がパリだcvi.マザリーヌ図書館のM10141はE-57とように,パリでの刊本にもとづきルーアンで出版されたものである.
E-70 Le Partisan tenté du désespoir par le démon de la Maltaute, qui lui reproche les crimes de sa vie et cause son repentir. Dialogue. (Rouen : Jean Berthelin, 1649, 12 p.)は,モロー [2722]の,ルーアンの印刷業者による再版である.モローはこれを補遺に入れている.([182])マザリーヌ図書館にあるルーアン版はE-70と一致する.
E-128 Déclaration du roi, pour faire cesser les mouvements et rétablir le repos et la tranquillité de son royaume, vérifiée en parlement, le 1er avril 1649. (Rouen, 1649, 12 p.)は,モローの[944]と同じ文書(パリで印刷,16ページ)で,二番目の増補では[60]に分類されているcvii.
印刷地は明示されていないが,ルーアンの文書であると認められるものは,E-58 Le Gazetier désintéressé et le testament de Jules Mazarin. (S. l., 1649, 20 p.) である.モローの[1466]と同じ文書で,「パリの刊本にもとづいてSur l’imprimé à Paris」と書かれているだけで出版地はない.しかし,キャリエの著作では,この文書はルーアンでのみ印刷された文書と一緒に合本されて見つかることが高い頻度であり,ルーアンで印刷されたのは間違いないとのことであるcviii
ところで,上記にあげたルーアンの文書の物理的形態に共通する,ある大きな特徴があった.8点のうちの6点までが,青い表紙と600番台の数字をもっているのだ.冒頭で述べたように,青い表紙の文書は全部で9点ある.それとこの結果を重ねあわせると,そのうちの6点がルーアンの文書だということになる.比較結果をわかりやすくするため,次のページで表にしてみた.
ルーアンの文書 青い表紙の文書
E-21 青表紙 607 (S. l., 1649.)
E-38 青表紙 606 E-38 青表紙 606
E-39 青表紙 600 E-39 青表紙 600
E-41 (青表紙なし)
E-57 青表紙 612 E-57 青表紙 612
E-58 青表紙 618 E-58 青表紙 618
E-70 青表紙 611 E-70 青表紙 611
E-78 青表紙 621 (S. l., 1649.)
E-91 (青表紙なし)
E-127 青表紙 608 (Paris, 1649.)
E-128 青表紙 625 E-128 青表紙 625
このように対照してみると,青い表紙をもっていて,出版地の不明なE-21,78にもルーアンのマザリナードである可能性を疑ってみてもよいのではないだろうか.
E-21 L’Adieu de Mazarin, burlesque. (S. l., 1649, 4 p.)はE-58と同様「パリの刊本による」と書かれているだけで出版地はない.この文書はパリで出たモローの [2730] Passeport et l’Adieu de Mazarinの再版([40])であるcix.しかし,どこで再版されたか,モローも明記していない.青い表紙に振られている番号は「607」.すでにルーアンの印刷業者のものだということがわかっているE-38「606」と連番だ.
E-78 Le Roman des esprits revenus à Saint-Germain, burlesque et sérieux et le qu’as-tu vu de la Cour ou les cotre-veritez. (S. l., 1649, 16 p.)もやはり,E-58やE-21と同様「パリの刊本によるSur l’imprimé à Paris」と書かれているだけで出版地はない.この文書もパリで出たモローの[3559] の別の版である([3559]は同タイトルで,後半の「et le qu’as-tu vu de la Cour ou les cotre-veritez」がない).そもそも[3559]にしてからが,別の文書[1642]Histoire des esprits revenus à Saint-Germainの焼直しなのである.つまり,この文書は,タイトルを変えて何度も出版されているので,ルーアンでも出された可能性はある.表紙には「Mazarinades」とインクで書かれ,「621」の番号が振られている. もっとも近い番号はE-58の「618」である.
E-127Décision de la question du temps, à la reine régente. は,モローの[871]の異版である.1649年にパリの印刷業者が出版したとなっているが,東京大学コレクションの中にある同文書(A-2-32, C-7-3, D-2-9)がすべて異なる版であるので,何度も再版されているものである.
上記の3点については,ルーアンで印刷されたと断言することはできないが,「しばしばルーアンの文書と合本されている」E-58のように,ルーアンの文書に混じったものではないかとも考えられるのだ.
コレクションDの特徴をなす,オルレアンのマザリナード,コレクションEのルーアンのマザリナードで見たように,「マザリナード」と呼ばれる文書には,パリばかりでなく地方で印刷されたものもある.地方の状況は,まずパリで印刷された文書がかなり流通した後から,地元でも再版されるというパターンである.パリから送られる文書は,中央から地方総督へ,友人から友人へ,あるいはコンデ派のように組織的に送る場合もあったが,多くは書店を通じて送られた.それゆえにパリで出版された文書が地方にも多く見つかるのである.たとえばグルノーブル市立図書館が所蔵する3000点のマザリナード文書のうち,90パーセントがパリの出版物なのだ.コレクションDで,オルレアンの文書といっしょに多くのパリの文書が見つかるのもそのためであろう.そうすると,コレクションEの青い表紙の文書のグループにパリの文書が混じっていることもうなずけるのである.一方,地方の印刷業者は,パリの文書を再版することに熱心だった.「パリの刊本にもとづいて」という表現がこうした事実を雄弁に物語っている.こうした現象がもっとも頻繁に見られるのが,前半ではルーアン,後半ではボルドーという,地方の拠点をなす二都市なのであった.ルーアンの場合は,地方の総督と連帯をうながすため,ボルドーの場合は逆に蜂起をうながすために,この種の再版が行なわれた.一方,ルーアンでは,しばしばフロンド側の優れた文書や重要なものも再版されている.パリからの文書が大量に入ってくる上に,地元で再版されてもいたので,前半のフロンドにおいて,ルーアンの住民はパリの事情によく通じていた.一方ボルドーは独立性が高く,〈フロンドの乱〉全般を通じてルーアンほどパリの文書の影響を受けなかった模様であるcx.
コレクションEの大きな特徴は装丁を崩した結果だということに認められる.ここにあるのが,合本を壊してまで売る価値があったものなのか,あるいは逆に売れ残りなのか,にわかには判断できない.それには「マザリナード文書」の取引相場を知らなければならないだろう.しかしながら,そうした商業的価値を離れた場合,このコレクションには〈フロンドの乱〉に関わる重要な文書が含まれている.たとえばE-30 Lettre d’un marchand de Liège à un sien correspondant de Paris, avec l’instruction secrète du cardinal Mazarin pour Zongo Ondedei, retournant à Paris. (S. l. , 1651, [1884])は,1651年夏に激化するフロンド派とコンデ派の対立に関わる重要な文書だ.また,スタイルとして,E-44 Les Triolets du temps, selon les visions d’un petit-fils du grand Nostradamus, faits pour la consolation des bons Français et dédiés au Parlement (Paris, 1649, [3859])は,〈パリ包囲〉の雰囲気をよく伝えるジャン・デュヴァルのトリオレである.キャリエがあげるビュルレスクの流行が頂点に達した1649年の代表的4作のひとつだcxi.しかし,連続した文書はそろっていない.ノーデの評価も高い[54] Agréable conférence de deux paysans de Saint-Ouen et de Montmorency sur les affaires du temps. は第3コレクションC-1-20から24に見るように5部あるはずだが,コレクションEでは4番目の文書しかない(E-117).また[830] Le Courrier françois…は第3コレクションC-1-40のように12点で完揃いだが,Eには3番目の文書しかない(E-126)などである.やはり合本が壊されたせいだろう.
第5コレクションEの文書は全部で130点である.その中に重複するタイトルは4つあった.また「モローの『目録』に記載がない」とされる文書は7点.このうちE-39, E-52,E-115は,それぞれモローの[3580], [345],[5]と同定でき,E-51は2番目の増補に記載([29])があることがわかった.その他はE-22,E-50がそれぞれソカールの[3],[13]に該当し, E-53をのぞいて,残りはすべてマザリーヌ図書館のカタログに記載がある.
III. コレクション全体の総数と調査結果のまとめ
はじめに柴田三千雄によって東京大学総合図書館の『図書館の窓』に紹介されたときのこのコレクションの文書数は「2600点を超え」るとされていた.購入時に付録としてついてきた作者不明の目録では,タイトル中に「約2800点」となっていた.それぞれの文書の登録番号から計算すると「2669点」でなければならなかった.わたしたちの調査では,44巻の文書をひとつずつ数えると2715点なった.ただし,この数字は,このコレクションにある文書の総数である.
一方,このコレクションには「モローの『目録』に掲載されていない」文書が相当数含まれるということであった.『図書館の窓』の紹介文では「223点含まれる」ということである.それらの文書は目録で見ると,登録番号に*印がついて区別されている.その合計は実際に数えてみると225点であった.それらの文書をもう一度,モローの『目録』と照らし合わせた結果,139点が何らかの形でそこに記載されていることがわかった.おそらく,こうしたことが起きたのは,コレクションの目録リストを作成する際に,タイトルを写し違えたか,モローを参照するときにタイトルのみを照合した結果だろう.また,このコレクションの目録が作成されたときには,モローの第1増補を含む3巻本の『目録』だけが参照されたようである.それゆえに第2,第3の増補には収録されていたり,独立した分類番号を与えられていないけれども,解説では言及されているものなどが「記載がない」という扱いを受けたものと考えられる.問題は残る86点である.
この86点は確かにモローの『目録』には記載されていない.「モローが知らなかった」という意味では「未発見」――― « Mazarinade inconnue » ―――である.しかしながら,これまで全く知られなかったという意味ではない.じっさいにそのほとんどはマザリーヌ図書館などのカタログに記録があった.たとえば,C-3-67 Réponse à la lettre du Grand Tvrc, envoiée au Roy (…) は,モローの『目録』には記載も言及もされていない.しかし,マザリーヌ図書館のカタログではモローの整理番号[2114] La Lettre du Grand Turc (…) の文書の脇に「返事がひとつある」(« Il y a une réponse. ») という注記がついている.「モローの『目録』に記載がない」文書でも,モロー以外の人が記録を残している.すくなくとも東京大学コレクションの「モローに記載がない」86点の文書のうち,56点については何らかの記述が別のところで見つかった.詳細は巻末の「225点の検証結果」に譲る.それ以外の残り30点もどこかに記載が見つかる可能性がある.これも数が多いので,詳細は巻末の「225点の検証結果」をご覧いただきたい.
しかしながら,モローの『目録』に記載があるか,無いかに関わらず,この225点の文書の検証から,ひじょうにめずらしい文書が見つかった.希少性の高い文書の発掘という結果に結びついたこの検証は有意義であったといえる.それらの文書については,「各コレクションの記述」の特徴で一部触れたが,ここに書き出しておく.
A-1-92(フランス国立図書館とシャンティに2点,サン・ペテルスブルグに1点+東京の1点),
B-5-11 (ゲッティンゲンに1点+東京の1点),
B-5-13(ブリティッシュ・ライブラリーに1点+東京の1点),
B-15-48(東京に1点のみ),
D-1-46(東京に1点のみ),
D-1-66(東京に1点のみ),
D-2-23(ブリティッシュ・ライブラリーに1点,個人の所蔵で2点+東京の1点),
D-2-25(マザリーヌ図書館に1点+東京の1点),
D-2-45(オルレアンに1点+東京の1点)
なお,これらの文書の所在と点数については,未刊行のユベール・キャリエによる「総合目録」を参照している.
さて,ここにあげた「225点の文書」の検証により,東京に1点しか知られていない文書などが見つかったが,東京大学コレクションを精査すると,最初の目録で「モローに記載されている」とされている文書の中にも,じつはモローが知らないという意味での「未発見」や,さらにマザリーヌ図書館などのカタログにも記録がない文書があった.そうした文書は主に第4コレクションDに集中している.たとえばD-1-56, D-1-59, D-1-64などは,モローにも,マザリーヌ図書館にも該当する文書が無い.そうした情報については,分冊の新しい「目録」に記録した.
このようにモローの『目録』に記載がなく,マザリーヌ図書館などのカタログにも記録されておらず,すでに成立している一個のコレクションの中に見出される文書は,ふたつの疑問を投げかける.その文書は本当に未発見であったのか,そして「真正のマザリナード文書」かということである.今回の調査は,東京大学コレクションがどのような状態にあるかを記述することが第一の目的であったので,それらが「真正のマザリナード文書」であるかという議論には踏み込んでいない.そもそも「真正のマザリナード文書」であるかどうかの考察は,「マザリナード文書」の定義ができて初めて可能になるものだろう.だが,わたしたちはまだ,「マザリナード文書とは何か」を観察する段階にあるのだ.
第4章 《 mazarinade 》語義の変遷
第1部「一般的な辞書による定義」での考察を踏まえ,そしてこの第2部において「実体としてのマザリナード文書」を検分した結果,わたしたちは次のような結論に達する.
現代の一般的な辞書の定義にしたがえば,「マザリナード文書」(mazarinade)とは「〈フロンドの乱〉の時期に,反マザラン感情を表した文書や歌など」である.しかしながら,物理的に存在するマザリナード文書はかならずしもその範疇におさまらない.ある程度予想されたこととはいいながら,マザリナード文書のコレクションには,じっさいには,さまざまな文書が含まれているからだ.
第2部で見た東京大学のコレクションを例としても,スカロンの『ラ・マザリナード』のように明らかにマザランを標的にしているものだけはでなく,マザラン側からコンデ公を攻撃した文書もそこには含まれているcxii.現実にマザリナード文書として扱われているものが,マザランを非難するものだけに限らないことは,コレクションBの構成がよく示している.その20巻は各巻が人物や項目ごとにまとめられていた.東京大学コレクション全体を見渡せば,「マザリナード」と呼ばれている文書は,内容だけでなく,文書の形式においてもさまざまであることがわかった.それは高等法院の裁定,建白であったり,書簡,国王宣言,定期刊行物,詩,歌,諷刺詩,他人を中傷するもの,ほかの文書への批判,あるいは宣伝や,虚偽も含まれていた.量も数ページから200ページを超えるものまであり,文章のスタイルもじつにさまざまなテクストの集合である.
では,一般的な辞書の定義と,じっさいにその名称で指し示される文書とのへだたりを,わたしたちはどのように考えればいいのだろうか.そもそも《 mazarinade 》という語の指し示すものが,現実の「もの」とずれてしまっているならば,それはどのようにして生じてきたのだろうか? わたしたちはもう一度,〈フロンドの乱〉に立ち返って,すなわち同時代人の視線にさかのぼって,この単語の使用を見ることにしよう.辞書のもたらす「像」と,現実の結ぶ「像」との間にある変化を埋めるためである.
I.同時代人の使用:フロンドの乱の同時代人にとって《 mazarinade 》という単語が示したもの
第1章で見てきたように,『TLF辞典』や『グラン・ロベール辞典』など今日の代表的な辞書では,《 mazarinade 》の語源的参照を,スカロンの『ラ・マザリナード』La Mazarinade (1651年)という作品に送る.しかし,『グラン・ロベール辞典』の記述には一部「v.1648」となっていた.つまりスカロンの作品以前にもこの語がなんらかの形で使用されていた可能性を示唆している.
1648年,すなわちフロンドの乱が始まる年,スカロンの『ラ・マザリナード』がまだ出版されていない段階で,《 mazarinade 》という単語が使われたのだとしたら,どのような形で,そしてどのような意味で用いられたのだろうか.辞書が曖昧に示しているスカロン以前の用例が,ほかならぬ「マザリナード文書」に見出されるのである.
1. スカロン以前:マリニーのトリオレtrioletの用法
スカロンより早く,そしてスカロンの用例とは異なる使用を,ユベール・キャリエはマリニーのトリオレに発見している.
「トリオレtriolet」とは,基本的には8音綴8行の三節からなる短い詩だcxiii.諷刺やからかいに用いられることが多く,遊戯的である.リシュレ Richeletの辞書(1680年)では,「今日用いられるのはまれ」であり,「ヴォードヴィル(民衆のざれ唄vaudeville)でしか使われない」とある.さらに「最も面白いトリオレは先のパリでの戦乱のときに作られたものをおいてない」cxiv.ここでリシュレのいう「先のパリでの戦乱」こそ〈フロンドの乱〉である.つまり,このトリオレもまた,「フロンドの乱」の時期に流行し,リシュレの辞書ができる17世紀後半にはすでに廃れていた.おそらくマリニーの作品は,リシュレのいう「パリで戦乱のときに作られた最も面白いトリオレ」のひとつにだったにちがいなかろう.事実,先に見たスカロンの『ラ・マザリナード』の中でも,呼びかけられているほど有名だったのだ.
しかし,たいへん残念なことだが,マリニーのつくったトリオレは,ほとんど印刷されることがなかったcxv.酒場などで歌われては,消えていった.書きとめられることもあったようだが,それらは歌の性質上,必ずしも正確に書き写されたわけではない.こうしたトリオレには,いわゆる「決定稿」のようなものが存在しない.ここで引用するのは,フランス国立図書館に残されている手書き原稿(ms. fr. 10879, fol. 101 r°)から,キャリエによって復元されたものであるcxvi.このトリオレがいつ書かれたかわからないが,内容は1649年6月24日から7月3日にかけて,フランス軍がカンブレの攻囲戦に失敗したことを揶揄している.
Devant la Reyne Mazarin
A fait une trivelinade ;
Il a sauté comme Arlequin,
Devant la Reyne Mazarin.
Mais devant Cambray le faquin
N’a fait qu’une mazarinade,
Devant la Reyne Mazarin
A fait une trivelinade
お妃様の前でマザランは
トリヴランばりにおどけてみせたよ:
アルルカンみたいに飛び跳ねたのさ
お妃様の前でマザランは.
ところがカンブレを目前にして,あのろくでなしめが,
やってくれたはほかでもない,いかにもマザランらしい猿芝居さ.
お妃様の前でマザランは
トリヴランばりにおどけてみせたよ
(下線は引用者)
2行目の《 trivelinade 》はイタリア喜劇の人物トリヴラン Trivelinに由来し,「トリヴランのような滑稽な言動」を意味している.レ枢機卿は『回想録』の中で,王妃がマザランを選んだのは「本家本元のトリヴェリーノだから」だと,この人物をマザランに重ねているcxvii.人名《 Trivelin 》と接尾辞《 -ade 》を介した派生語《 trivelinade 》の関係は,《 Mazarin 》《 mazarinade 》のそれに相当する.
さて,マリニーのこのトリオレにおける用例をキャリエは次のように解説する.「意味は明快である:《 mazarinade 》は《 trivelinade 》《 turlupinade 》《 tabarinade 》らの語と同様に形成されたのだ.それは笑劇役者の受け狙い,喜劇役者の悪ふざけ,道化役者の猿まねを示す」という.cxviii
日本語にあえて訳すならば,マリニーの用例に見る《 mazarinade 》は「いかにもマザランのやりそうな猿芝居」という意味になろうか.キャリエは同時に,こうした意味での使用が,マザランの最初の亡命(1651年2月)のころに出版された文書には頻繁に見られるという.それはマザラン自身の行動,あるいはその賛同者の動きを指し,道化のように「ふざけたまねをしている」あるいは「嘘八百をならべている」と非難するために用いられているcxix.マリニーがここで取りあげたカンブレ攻囲戦の失敗は,「マザランの猿芝居のひとつune mazarinade」にすぎない.ほんの一例なのである.キャリエがあげるほかの二つの用例「彼のマザリナードses mazarinades」(1650年)cxx,「たくさんのマザリナードtant de mazarinades」(1651年)cxxiは,いずれも複数形になっており,最初の用例の所有形容詞「ses」がマザラン自身であることに注目したい.マザランの演じる「茶番」や「ごまかし」はこのほかにもたくさんある,ということだ.この用例における《 mazarinade 》は「マザランの叙事詩」を構成する個々の出来事を個別に指し示している.それは次に出てくるスカロンの用例と大きく異なるのである.
2. スカロン以後:《 mazarinade 》のジャンル化
2-1. 所有形容詞「ma」と表現の問題
《 mazarinade 》の語源とされるポール・スカロンの『ラ・マザリナード』は,1651年,すでに上記の用法でこの単語が用いられている環境に出現した.
第1部第4章で見たように,スカロン作品は形式を叙事詩のパロディに求めている.このタイトルは接尾辞《 -ade 》によって,《 Iliade 》や《 Franciade 》などのように叙事詩のタイトルになっている言葉と同様,この作品は「叙事詩である」ことを主張する.マリニーのトリオレに見る用法とはっきり異なるのは,その点なのである.このタイトルにおいて《 mazarinade 》はマザランの個別の失敗,あるいは個別の出来事を指すのではなく,全体が「叙事詩であること」を指し示している.そしてそのことが,この単語の意味に決定的な変化を与えることになったと考えられるのだ.次に第1部で見た『ラ・マザリナード』のテクストをもう一度参照してみよう.
まず,詩人はこの作品の導入部で,まさに前出のマリニーを名指して(34行目),次のように呼びかけている.
« Escoute ma mazarinade »
(聞いてくれ,俺のマザリナードを)cxxii.
ここでの所有形容詞「ma」は,明らかに「詩人」だ.先に見た「ses mazarinades」の所有形容詞「ses」がマザラン自身を指していたのとは異なる.詩人はこの所有形容詞によって,「語り手である自分」に注意をひきつけようとしているのである.「これは俺のマザリナード(ma mazarinade)だ」.詩人は「語られる出来事」よりも「語り手である自分」へ注意をうながしている.だが,こうした身振りは,どこから来るのだろうか.
この文書が出版される1651年は,〈フロンドの乱〉が始まってすでに3年過ぎていた.この年の初め,ガストン・ドルレアンはフロンド側と密約を結び,マザランとの対立をもはや隠さなかった.コンデ公の逮捕以来,反乱は地方にも飛び火していた.パリ高等法院も大公らの解放を求めている.そうした国内情勢にあって,マザランはコンデ公らを釈放せざるをえず,自分は亡命を余儀なくされた.その意味では,これまでの首相批判は目標を達成したといえるのである.
マザランの行動は,じっさい,それまで散々揶揄されてきた.すでに第1部第3章で引用したガブリエル・ノーデの手紙には,この年の6月,最初の亡命から4ヶ月後に,こう書かれている.マザランを誹謗中傷する文書は「すでに2年も前から見過ごせる状態ではなかった」.しかもそれは「敵方も驚くほど」の激しさであったcxxiii.そうした言葉による攻撃が2年も前からマザランにむけられていたならば,いまさら何を書くにしても,新しいことはなかったはずだ.そこに誰かが何かを付け加えたいと思っても,新事実の暴露でないかぎり,二番煎じにしかならない.こうした中で,周知の事実を語りなおす価値はどこにあるのだろうか.もう何度も繰り返し語られていて,知られている出来事を語るのであれば,詩人にとってはそれをどのように語るのか,「表現の問題」に絞られるであろう.1651年詩人スカロンが新たな文書を書こうとしたとき,そこでは新規の事実ではなく,どのように表現するのか,その方法が問われていたということである.
スカロンはそこで「ビュルレスク」というジャンルを選んだ.それは形式として叙事詩のように見せながら,卑小なことを仰々しく詠い,その落差によって滑稽味を出す.第1部第4章で見たように,詩人はいかにも叙事詩らしく詩神──とはいえ,普通の叙事詩とちがって,この詩神は鋭い諷刺の言葉をもたらす──に呼びかけたのち,マザランの罪を数えあげ,裁きを下し,民衆の怒りによって死体が引き裂かれるイメージを描いてみせる.それは陰惨ではあるが,同時に粗野なエネルギーを暗い嘲笑にして炸裂させる.詩人はこうして「自分のマザリナード」を語り終える.
2-2. 定冠詞「la」により獲得される《 mazarinade 》のジャンル的独立
ここでもうひとつ重要なことは,詩人がこの作品を締めくくるにあたって,タイトルに定冠詞をつけたことだ(La Mazarinade).なぜタイトルも同様に「Ma Mazarinade」にしなかったのだろうか? あるいは冠詞をつけずに「Mazarinade」としてもよかったのではないか.冠詞抜きのタイトルの方がより一般的ではないだろうか.しかし,スカロンの選択は,語りには所有形容詞を( ma mazarinade ),タイトルには定冠詞をつけ,大文字で始めること( la Mazarinade )であった.
所有形容詞が詩人の語り口に注目させることはすでに述べた.では,この定冠詞はどのような意味を派生させるのだろうか.それは「上位概念語hyperonyme」としての《 mazarinade 》,すなわちジャンルとしての「マザリナード」を強く印象づける.もし,冠詞をつけずにこの語が使われていたならば,マリニーの用例に近く,ほかにも「マザリナード」がある可能性を暗示するcxxiv.だが,定冠詞をつけた場合,それは《 mazarinade 》という単語が使用されるたびに,参照が送り返されるべきところとしてこの作品を位置づけることが可能である. La Mazarinadeというタイトルはひとつのカテゴリーとしての自立を主張する.
詩人はこうして《 mazarinade 》に定冠詞をつけて新しい表現のジャンルとして立ちあげ,所有形容詞をつけて自分の語り口をその最初の規範としてそこに登録しているのである.「ビュルレスク,すなわち韻文で,叙事詩のパロディという形をとり,かつマザランを諷刺する文書」という形での「マザリナード」.音(韻文)と形式(叙事詩のパロディ)と内容(マザランの風刺)の三点がそろって,初めてそれは「マザリナード」と呼べるということだ.いいかえるなら,以後,人が《 mazarinade 》という言葉を口にするとき,あるいはこの言葉を耳にするときに,その参照が送り返される先は,スカロンのLa Mazarinadeになるということである.
スカロンによる『ラ・マザリナード』がたいへんよく売れたことは,現在までいくつかの異なる版が残っていることが証明している.すでに第1部第4章で指摘したが,東京大学コレクションにも3種類の版(B-13-62, C-11-7, D-1-38)があり,マザリーヌ図書館には6種類の版が見出される.《 mazarinade 》という語は,こうしてスカロン作品のタイトルになることによって,マザラン諷刺文書の中にひとつのジャンルをつくりだした.しかもひじょうによく売れたことにより特権的な地位を占めるようになったと考えられるのである.この新しい文芸ジャンル「マザリナード」の属性は,韻文のビュルレスク――叙事詩のパロディ――という形式を用いて,内容はマザランを嘲笑するものである.しかし,その名称がフロンドの乱の時期に書かれた文書の総称として通用するには,またさらに別の条件が必要だと思われる.スカロンの作品『ラ・マザリナード』がほかの文書に与えた影響には,ほかにどのようなことが考えられるだろうか.
II. 文芸ジャンルから政治的言説のジャンル「マザリナード」へ
スカロン同様,マザランを攻撃するためにビュルレスクを用いた書き手はほかにもいた.今日「マザリナード文書」と呼ばれるおよそ5,000種類の文書のうち,約四分の一が韻文8音綴のビュルレスクであるといわれるcxxv.マザリナード文書の文学的価値を網羅的に検討した著書で,ユベール・キャリエは718ページのうちのおよそ100ページを「ビュルレスク」というジャンルに割いているcxxvi.それほどにこの文芸ジャンルがマザリナード文書に占める比重は大きい.
ところで,このジャンルの文学史上の隆盛が〈フロンドの乱〉の時期と一致することは,第1部第4章で述べた.しかし,マザリナード文書にこれだけビュルレスク作品が多いのは,それが単に流行の文芸ジャンルであったからというにはとどまらない.このジャンルには,〈フロンドの乱〉のような政治的対立に際して,敵方陣営を攻撃する言葉=武器としての「資質」があったにちがいないのである.まさにクリスチャン・ジュオー Christian Jouhaudが著書のタイトル(Mazarinades : la Fronde des mots)に使用したように,言葉の飛礫となりうるような力である.だからこそビュルレスクという表現形式は多用されたのだ.しかし,その資質について詳しく知ろうとすれば,17世紀文学史の権威であるアントワーヌ・アダン Antoine Adam や,まさしくジャンルとしてのビュルレスクを研究対象にしたフランシス・バールFrancis Bar,また,スカロン研究のポール・モリヨPaul Molliot らをはじめとする文学研究の著作から着手し,「ビュルレスク」というジャンルそれ自体の成立と定義から掘り起こさなければならない.本論ではその必要性を指摘するにとどめ,論考を展開することはしない.だが,この表現形式で書かれた一作品のタイトル(La Mazarinade)から,「マザリナード」というひとつのジャンルが派生する状況,やがてその呼称がフロンドの乱の時期に印刷,あるいは手書きされた文書の総称に拡大する過程,このふたつについて考察するために必要な,「ビュルレスク」が文芸の場に占めていた地位,形式などに関しては,やはり指摘しておかねばならない.
まず問題の文芸ジャンル「ビュルレスクburlesque」は,もともと16世紀に入ってきたイタリア起源の言葉 《 burla 》(フランス語ではplaisanterie)《 burlesco 》(フランス語ではplaisant)に由来する.語源の示すとおり基本的には「笑いを誘うもの」である.フランスにおける「笑い」の文学といえば,時代の近いところでは16世紀のフランソワ・ラブレー François Rabelais (1483-1553) がすぐに思い浮かぶ.だが,「ビュルレスク」は韻文,すなわち詩のジャンルで,マロ Clément Marot (1496-1544) のような擬古調の笑いと,フランチェスコ・ベルニ Francesco Berni (1497頃-1535)に代表されるイタリア戯作詩人たちの奔放な諧謔の融合から生まれたcxxvii.スカロンの『ビュルレスク詩集』Recueil de quelques vers burlesquesが出版されるのは1643年だが,同年にサン‐タマン Saint-Amant, Antoine Girard, sieur de (1594-1661)の『滑稽ローマ』La Rome ridicule,翌年,サラザンSarrasin, Michel の 『ねずみ』 La Sourisが出て,これらがビュルレスク作品にひとつのモデルを与えたcxxviii.
ところで,一口に「笑い」といっても,軽妙洒脱な笑いから重く苦い笑いまで,じつにさまざまである.ビュルレスクは, 高尚な主題を,それに見合った品格のある言葉遣いではなく,およそ似つかわしくない卑語,俗語,方言,俚言などを駆使して語り,その落差によって笑いを生じさせる.語彙はその道具にすぎないのだが,それに目を奪われていると,ビュルレスクというものは,そうした語彙に頼った,芸の無い,「低級な」笑いに見えてしまう.けれども,それは断じて語彙にもたれかかった笑いではなく,「探求の結果」であり,ひとつの芸術であったと,アントワーヌ・アダンはいうcxxix.つまり,どう「落差」をつけるかが重要なのだ.しかし,こうしてビュルレスクに使われる語彙の,ゆきすぎれば粗野であるだけでなく,いささか下品な,あるいは猥褻な表現は,人が「悪態をつく」ときに用いるものだ.この語彙こそ,文芸ジャンル「ビュルレスク」が「言葉の飛礫」となりうる第一の要素と考えられるのである.
しかもこのジャンルは韻文8音綴でつづられる.叙事詩に用いられるこのリズムは暗記しやすい.先に見たトリオレのように,8行3連という決まりの中では,盛り込める内容におのずと量的制約があるが,ビュルレスクならば,トリオレの制約を超えることができる. 8音綴のリズムが記憶しやすいことは,「言葉の飛礫」を他人と共有しやすくする.つまり,このリズムと記憶とによって,言葉を武器として共有する人々の間に,連帯感を生むことが可能である.これは第二の要素といえるのではないだろうか?
さて,もう一度文学史に戻ると,文芸ジャンル「ビュルレスク」の歴史は,1644年にひとつの転機をむかえる.スカロンによる,このジャンルの代表作『ティフォンあるいは巨人の戦い』Typhon ou la Gigantomachieが登場するからであるcxxx.本来ならば叙事詩の登場人物である神々と巨人族の戦争を描いたこの作品は,こうした登場人物にあるまじき滑稽な行動や言葉遣いで笑いを誘う.アントワーヌ・アダンはこの作品をして次のように評価する.「フランスにおけるビュルレスク詩の最初の作品であり,このジャンルの様式を決定した」cxxxi
文芸の場において,このジャンルの「先駆者」となったスカロンは,さらに1648年から1653年にかけて全8巻の『変身ウエルギリウス』を出版する.この作品は,古代ローマの詩人ウェルギリウス Publius Vergilius Maro,(紀元前70-19)の叙事詩『アエネイス』を元にしている.古典主義時代にもっとも崇高なジャンルとされた叙事詩のパロディ――「変身ものtravesti」は,大流行し,ウェルギリウスだけで少なくとも12回は「変身」させられたようだ.わたしたちにとって注目したいのは,スカロンによる『変身ウェルギリウス』の成立年代と,その様式である.1648年から1653年にかけて,すなわちその成立年は〈フロンドの乱〉と同時期なのである.そして,『変身ウェルギリウス』の様式は,叙事詩を語りなおし,神々や英雄を文字通り「変身」させる.出来事もまた,それにともなって様相を変える.それは言葉遣いひとつによって実現されるのである.ビュルレスクの様式をこの「変身もの」に限定することには,確かに異論もあるcxxxii.だが,わたしたちにとって重要なのは,スカロン作品の成功によって,類似の作品が多数現れ,「コミカルな変身」がこのジャンルの支配的様式となったことだ.さらにその時期が,〈フロンドの乱〉(1648-1653)に一致することなのである.
文芸の場で,「変身」という様式を得たビュルレスクは,叙事詩を次々とパロディ化する.ビュルレスクにおける詩人は,もっとも高貴な文芸である叙事詩の語り手を模倣し,大げさな身振りで語る.送り返される参照は神々や英雄たちである.だが,これらの「登場人物」におよそ似つかわしくない表現で笑いを誘う.本当の叙事詩には用いられることのない俗な言葉で,神々も英雄も道化芝居の人物に「変身」する.
この参照を,現実の人物に送り返せばどういうことになるか.詩人は叙事詩の語り手をまねて,仰々しく登場する.だが,英雄譚とちがって,参照が送り返されるのはある特定の人物や出来事だ.そこで語られる対象は,叙事詩では決して使われない卑俗な言葉を総動員し,徹底的に矮小化される.本物の英雄とは反対に,とことん愚弄され,猿芝居の英雄として祭りあげられる.このジャンルにおいては,滑稽味を出すために,むしろ高尚な文芸からは排除されるようなあらゆる種類の言葉が許されているのである.文芸の場で「叙事詩のパロディ」という「変身術」を得ることによって,ビュルレスクは特定の人・物を攻撃する準備が整った.参照の送り返される先が,叙事詩の世界から現実社会へ移るとき,ビュルレスクは文芸の場から,政治の場へと足を踏み出してゆく.今度は実在の人物を「変身」させるということである.
その意味でスカロンの『ラ・マザリナード』という作品は,ビュルレスクというジャンルを文芸の場から政治の場へスライドし,移行させる役割を果たしている.この作品は文芸の場から見れば,ビュルレスクのなかに,定冠詞「la」によって「マザランを主人公とする作品」という下位ジャンルを作り出す.それは「変身もの」ビュルレスクのなかにあって,実在の人物に参照を送り返す.そして類似の作品を「マザリナード」という呼称のもとに集合化していく.
同時に,こうして集合化された作品群は, 3年前に〈フロンドの乱〉が始まって以来,さまざまな政治文書が出回っている現実社会にあって,マザラン批判言説の一部とみなされる.つまり政治的言説の一角を占めるのである.しかも,流布しているのは印刷された文書ばかりではない.手書きの文書もあれば,歌もある.それらはマザランに言及する限りにおいて,すべて「マザリナード」と呼ばれうるものだ.そのなかにあって,文芸の場でひとつジャンルとみなされているだけに,スカロン作品を原型とする「マザリナード」は,政治の場においてもひとつの独立した言説のカテゴリーとなる.
スカロンの『ラ・マザリナード』は,文芸ジャンルとしての「ビュルレスク」のなかに,「ビュルレスクで,かつマザランに関するものburlesque et mazarinade」という下位ジャンルをつくり,その頂点に立つ.同時にそれは,政治的言説のなかのマザラン批判において,ビュルレスクで書かれたマザラン攻撃の言説を集合化して,ひとつのカテゴリーを形成する.スカロンの作品はそれぞれの言説の場をつなぎ合わせ交差させる機能を果たしたのである.しかしながら,文芸の場においてはあくまでもビュルレスクというジャンルの中の「マザリナード」であったものが,政治的言説の場では,文芸のカテゴリーであることよりも,内容を指す「マザランに関する」という意味の方が,当然,前面に出てくる.そこでこのふたつの属性は順序が逆転し「ビュルレスクのマザリナードmazarinade burlesque」となり,やがて「ビュルレスクburlesque」が落ち,単に「マザリナードmazarinade」と呼ばれるようになる.この名称が,形式にかかわらず「マザランに言及するもの」を指し示すようになるのは,時間の問題であったろう.
III. コレクターの登場
上述のように,スカロンの『ラ・マザリナード』が,〈フロンドの乱〉における政治的言説にカテゴリー化をうながす影響を与えたとしても,それはこの文書が出版された1651年以降のことであり,かつマザランに言及するものに限られている.時期からすれば,〈フロンドの乱〉(1648-1653)の後半であり,言説の一部に過ぎない.《 mazarinade 》という名称が,第2部で見てきたように,さまざまな文書の集合に対して用いられるようになるには,もう一段階が必要である.そこに重要な役割を果たしたのは,「コレクター」の存在だ.
ユベール・キャリエの記述では,この「コレクター」の存在が語義に与えたであろう影響は割愛されている.スカロンのタイトルから18世紀に一般名詞化していくという指摘に続いて,セレスタン・モローの『目録』の登場の後に辞書に記載されるようになり,最初にこれを一般名詞として取り上げたエミール・リトレによるきわめて狭い定義づけ──「〈フロンドの乱〉の時期に出版された反マザランの文書や歌」──が,あらゆる辞書で繰り返されることになったと説明されているcxxxiii.じっさいに起きたことはそのとおりだが,ここでは,もう一度「コレクター」の存在とその役割に目を向けてみたい.そのほうが,わたしたちの問題──現実に「マザリナード文書」と呼ばれるものと,辞書の定義とが乖離していく過程──をよりよく理解できると考えるからである.
1. 文書の集合化
今日,「マザリナード文書」がわたしたちの時代まで残っているのは,これらの文書を集めた「コレクター」の存在によるところが大きい.しかも,こうした文書の蒐集は,〈フロンドの乱〉が始まるとほぼ同時に開始されていた.その最も代表的なコレクターが,皮肉なことに,マザランの司書のガブリエル・ノーデなのだった.このノーデのコレクションが,世界でもっとも大きなコレクションの核となり,マザリーヌ図書館に保存されているのである.
ガブリエル・ノーデは,しかし,単なる蒐集家ではなかった.彼はある明確な目的をもって,政治的誹謗文書を集め始めたのである.ノーデは, 1649年,内乱のさなかにそれらの文書への批評Ivgement de tout ce qui a esté imprimé contre le cardinal Mazarin, depuis le sixième Ianuier iusques à la Déclaration du premier Auril mil six cens quarante-neufを出版した.一般には,この本に登場する対話者Mascuratの名をとって,『マスキュラ』と呼ばれるている.この著作は,タイトルが示すように, 1649年1月6日公現祭の前夜,宮廷が突然パリを離れ,コンデ大公の軍隊がパリを包囲したことに始まる〈パリ包囲〉から,同年4月1日に宮廷とパリ高等法院が和平を宣言するまでに印刷された反マザラン文書への意見を述べたものだ.1649年の夏ごろに初版(492ページ)が出て,大幅に加筆した再版(718ページ)が1650年に出ている.一冊の書物に相当するページ数だが,じつはこの著作自体が「マザリナード文書」として,モローの『目録』に登録されている([1769]).この文書の特殊性は,これが他の「マザリナード文書」を批評した「マザリナード文書」であることだ.つまり,ノーデの場合,雇い主であるマザランへの批判に反論するため,文書を買い集めたのであるcxxxiv.
同時代人のなかでも,動機の明確さという点でノーデは異色の存在だが,その他のコレクターたちは,いったい何を目的にこうした文書を集めることになったのだろうか.ノーデのように反駁の根拠にしようとしたのだろうか.あるいは内容に興味を覚えて手元にとどめておくことにしたのだろうか.とはいえ,場合によっては,取締りの対象になっているような印刷物もあるのだ.それらは所有しているだけでも危険だったのではないか.それゆえに隠しもっていたい誘惑にかられたのだろうか.その理由は個人によってさまざまだろうcxxxv.
ノーデが『マスキュラ』を執筆したのと同じ頃,パリの民事代官に提出された証言(1649年10月4日付け)のひとつから,同時代人の動機の一端がうかがい知れるのではないか.ディディエ・ロストDidier Lhosteなるパリの市民は,「マザリナード」の通で,過激できわどいものを探していたという.印刷業ヴィヴネNicolas Vivenay の店へ行き,次の文書を買い求めたのだ. La Custode de la reyne, qui dit tout, La France et les royaumes ruinés par les favoris et les reines amoureuses,Le Silence au bout du doigt とその続編,La Requête civile contre la conclusion de la paix, La France sans espoir, Le Courrier du temps, apportant ce qui se passe de plus secret en la cour des princes de l’Europe の合計7点である.ヴィヴネはこの客の求めに応じて,作業台の下にこっそり隠してあったこれらのテクストを出したのであるcxxxvi.
この市民が買った文書は,いずれも1649年の春から夏にかけて出版されたものである.すべてモローの『目録』に見出され,どれも「無礼なinsolent」あるいは「卑猥なordurier」などと形容されている.なかでも筆頭にあげられるのは,王母アンヌ・ドートリッシュを中傷した『王妃の閨の帳,すべてを語る』La Custode de la reyne, qui dit tout(B-4-15, [856])であろう.これは印刷業者が逮捕されて,死刑宣告を受け,民衆の暴動にまで発展した,いわくつきの文書である.これらが出版された時期, すなわち1649年春から夏にかけては,宮廷とパリ高等法院の和解が成立し,8月18日に宮廷がパリに戻るまでの間で,こうした文書への取締りがもっとも強化された時期であるcxxxvii.宮廷がパリへ戻る条件として,こうした誹謗中傷文書の一掃を求めたのだ.『王妃の閨の帳,すべてを語る』の印刷業者モルロ Claude Morlot が逮捕されたのは7月17日であるcxxxviii.こうしてディディエ・ロストなる市民に無礼な文書を売ったヴィヴネも秋に逮捕される.この証言があったのは10月4日のことので,11月9日には第一回目の尋問を受ける羽目となるcxxxix.ディディエ氏はモルロの逮捕など騒然とした状況があったにもかかわらず,危険な文書を7種類も購入していたということである.そのほかにも買い続けて,コレクションを作ったかどうかは不明である.しかし,この時期に7点もこの手の文書を購入しているというのは,「蒐集」に近い行動とみなせるのではないだろうか.同じくヴィヴネの店で,ほぼ同時期に,ある貴族が人に頼んで買わせた文書もディディエ・ロストが購入した書名とぴったり重なっているcxl.どうやら,「無礼できわどい」印刷物の愛好家は,身分を問わず,少なからず存在していたといえるのではないか.
こうして熱心に印刷物を買い求める人々のなかから,大小さまざまなコレクションが生まれてきたにちがいない.わたしたちが第2部で見てきた東京大学コレクションの,装丁が施されているAからDまでの下位コレクションも,〈フロンドの乱〉からそれほど遠くない時期に集められたと考えられるものだ. BとDはおそらく17世紀に,Cは17-18世紀に,Aは遅くとも18世紀の半ばごろまでに製本されたと推定されるからである.これらのコレクションの文書のまとめ方はそれぞれに異なる.Bのように関わりのある人物ごとにまとめて製本されていたり,Cのようにアルファベット順に整理されているコレクションもある.要するに,コレクターには独自の蒐集の基準があり,それに従って文書をまとめているのだ.重要なのは,そうしたことが,個々に見れば合目的的だが,全体としてみれば恣意的で多様な集合体をいくつも形成していることだ.
同時に,文書の数がある程度に増えると,整理のために,あるいは財産管理のために「目録」の作成が必要になる.現在,パリのアルスナル図書館に見出されるコレクションのアルファベット順一覧表はその意味できわめて興味深い.その一覧表は1698年の日付になっているのだ.いいかえればそれは,〈フロンドの乱〉からあまり遠くない時期に,すでにある程度まとまった量のコレクションができていて,目録に相当するものも作られていたことを示しているのである.
ところで,文書の集合を「ある程度のまとまり」,つまり量として考えると,その最小単位はどれくらいなのだろう.それには製本できるかできないかが,一応の目安になるのではないか.次に整理の仕方についてであるが,それについてはキャリエが,アルスナル図書館の一覧表をもとに,17世紀では,製本に先立って文書を項目ごとにまとめる傾向にあったというcxli.たとえば,アルスナル図書館の例では,各巻の項目立てが「国王と王太后に関する全文書」「(コンデ公らの)大貴族に反対,賛成する文書」「国王の宣言」「1649,1650,1651年のボルドーにおける動向」「韻文」「パリ高等法院に関するマザリナード文書」あるいは「同一作家の文書」になっている.そして,製本されるときに,こうした項目が表題として書かれることになる.
わたしたちの東京大学コレクションB全20巻は,国王以下,王太后,オルレアン公,コンデ公というように,主として人物を中心にまとめられ,各巻の最初に表題紙が入っている.表題は「…の事柄に関する文書の集成 Recveil de plvsievrs pieces tovchant les affaires de…」となっており,しかも手書きではない.なんと「印刷」されているのだ.このように「印刷された」表題紙がほかにもあって,早くから売られていたらしい.興味深いことに,モローの『目録』では,これらの印刷された表題紙自体が「マザリナード文書」として収録されている.たとえば Recueil de ce qui s’est passé contre le mauvais gouvernement de Jules Mazarin, cardinal et premier ministre d’État en France, ès années 1648 et 1649, première partie. ([3034]),Recueil de toutes les pièces faites contre le cardinal Mazarin sur l’enlèvement du roi de sa bonne ville de Paris. ([3047]) がそうである.この二つは明らかに「反マザラン」の文書の集合に表題紙として使用する目的で印刷されている.この表題のもとに何がまとめられるかは,集めた個人に依存する.ヴィヴネの店で「過激な文書」を買い求めた市民も,こうした表題紙を購入したのかもしれない.〈フロンドの乱〉が終わって,時代が次の世紀に入る前に,個人がそれぞれに集め始め,いくつかの核になるようなコレクションがこうして表題のもとにまとめられていったにちがいない.
一方,こうした表題紙だけでなく,モローの『目録』にはRecueil de…というタイトルで数種類の文書を集めた「選集」も見出されるcxlii.個人が別々に集める一方で,あらかじめこうして複数の文書がまとめて売られる場合もあったのだ.モローの『目録』に掲載されているのは1649年に出版されたか,この年の〈パリ包囲〉に関連するものが多く,それだけに「反マザラン」がタイトルに入っている文書が目立つ(たとえば, [3040] Recueil de plusieurs pièces curieuses contre le cardinal Mazarin, imprimées depuis l’enlèvement qu’il fit de la personne du roi, le 6 janvier 1649, jusques à la paix qui fut publiée le 2e jour d’avril de la même année, et autres choses remarquables arrivées durant les trois mois que ce ministre étranger a allumé la guerre contre le Parlement, le peuple de Paris et autres bons Français. 1649年).しかし,一方で,大貴族を擁護するもの([3036] Recueil de diverses pièces pour la défense de messieurs les princes. 1650年),そのための高等法院裁決,書簡,王宣,証書などを集めたもの([3045] Recueil de tous les arrêts de la cour de Parlement, lettres, déclarations et autres actes donnés tant pour la liberté et innocence de messeigneurs les princes…, 1651年)も見出される.
このように,〈フロンドの乱〉の時期に印刷された文書は,個人が集めたり,あるいは選集として売られたりした.大小さまざまな文書の星雲をなしていた.とりわけ1649年以降には印刷された表題紙も売り出されるようになっていた.そうした中で,先に見たように,一部の文書が――ビュルレスクで書かれた反マザラン文書が――「マザリナード」と呼ばれるようになっていく.それらが人々の手元で,マザランに関わるその他の文書――反マザランであるにせよ,親マザランであるにせよ――と合わさっていくということである.やがて人々が,それらを指して「マザランに関わる文書」として「マザリナード」と呼ぶようになるのは,ごく自然の道筋のように思われる.まして,フロンドの乱の同時代人にとって, 天下の乱れの原因はひとえにマザランにあるという構図ができあがっていたのなら,なおさらではなかろうか.人々の動向やさまざまな出来事はすべて,そのために起きたことであり,それらについて語る文書はすべからく「マザラン」に関わっているのだ.大貴族の手紙であろうと,高等法院の建白書であろうと,巷で聞かれる歌や流言飛語であろうと,そうした「言葉」の大元を正せばには,つねにそこには「マザランの愚行」があるということだ.フロンドの乱の時期に印刷された文書が,ある程度の量人々の手元にたまってきたとき,それらは同時代人にとってマザランの愚行の集積,すなわち「マザリナード」ということになる.そしてさらに,時代が下れば,それらの文書は歴史的な記憶として,マ